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『禅』とは何ですか?

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  【武道を通して見た、禅】  

 案外、「禅」とか「座禅」と言う言葉は、今や日本より、外国の方が馴染みがあるのかも知れません。鈴木大拙(本名:貞太郎)氏が、『大乗起信論』(著者:馬鳴[アシュヴァゴーシャ])とされる)を英語で訳し、その他ご自分でも英文で著作し、禅というものを海外に広められた事が有名だと思います。

 一般的には、お寺で座り、お坊さんが、下の写真のように、*警策(けいさく)を持って、眠気を覚ましてくれる。テレビなどで、よく見る光景を思い浮かべる事と思います。
 静かな所で心を落ち着けるために、瞑想しているんだな。偉いお坊さんから指導を受けて、心を浄化してもらっているのかな。と言うような漠然とした知識を持つのが当然だと思います。なぜなら、日本人として生まれても、「禅」や「座禅」に対する教育を受けたことが無いからです。
 
 私は、「禅」と言うものは、漢字から、悟りを開くための方法を、簡「単」「示」したものだと思っていました。しかし、良く考えてみると、サンスクリット(ディヤーナ)、パーリ語(ジャーナ)、などの言葉が中国に渡り、音写されて、禅那、または禅になったと言われていますので、勝手にそう考えていたのかも知れません。確かにどこかで聞いたような記憶があるのですが、定かではありません。

 兎に角、禅と言う思想の発端も定かではありません。取りあえず、インドではゴータマ=シッダールタ(釈迦・仏陀)が悟りを開いたとされる、数千年も前から瞑想に耽るヨーガ(瑜伽)の修行が行われてきたとされています。
 現在「禅」と呼ばれている系譜は、仏陀・達磨大師・慧能と継承され、インド・中国をへて、日本に伝えられたと考えられています。
 奈良時代の少し前に、道昭和尚(法相宗)が、唐に渡り禅の教えを受け日本に伝えたとされていますが、禅僧としては、臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、黄檗宗の隠元禅師の三人が特に有名でしょう。

 まぁ、歴史的な知識はこの程度にしておいて、先述した「悟り」に興味はありませんか。
 
 「悟り」と言うのは、仏陀が、今から2500年ほど前、インド菩提樹の木の下で座禅をしていて、悟りを開いたとされています。その教えは「四締八正道」として残されていますので、興味のある方は一読されては如何でしょうか。
 *釈迦はシャーキャ族の王子として生まれたとされていますが、若くして結婚し、「生・老・病・死」や「人間の苦悩」を痛感したと伝えられていますが、これだけでも、すごい人ですよね。16才ですよ。現在と時代背景も違いますし、平和な日本という土壌も違いますし、生まれ育った環境も違いますが、29才の時に、栄耀栄華を極めた生活を捨てて、出家するという覚悟は相当のものだったんでしょう。この時すでに「悟り」と言う言葉はあったんでしょうね。「悟り」を求めて出家するのですから。

 この「悟り」という言葉が曲者で、言葉は知っていても内容が解らない。と、ここまで来ると、何となく「悟り」が見えてきませんか。[見えません!と言う声が聞こえそうですが?]
 そうです、「悟り」って、色々書かれているけど、「悟った人」は「仏陀」一人ですから、解らないんです。ですから、仏陀は、教外別伝として「座禅」を残したのです。仏陀と同じように「悟り」を得たいのであれば、「座禅」をしなさいと。
 今、悟った人は一人と書きましたが、歴史上には「悟った人」もいたんでしょう。現在も居る事でしょう。しかし、悟った人にしか、悟った人が解らないと言う事ですから、凡人の代表である私に解る分けもありません。「悟り」を開いたら、仙人になれるのかなぁ、と思っています。

 禅宗では、禅問答という一種の試験があります。悟りの段階を試す方法です。よく、訳の分からないことを「禅問答」みたいな事をいうな、と揶揄します。現代では死語かも知れませんが。
 禅問答の公安(問題)は、1700にも及びます。試験のための問題集です。無門関・碧巌録・従容録・臨済録が有名な書物です。この問題を、*不立文字・*教外別伝の世界で答えを出すのですから、理論や説明による演繹(えんえき)や帰納、或いは、数学や物理のような正解は存在しないとなると、が幾つも頭の上を飛び交います。

 では、何を目指して「座禅」するのでしょうか。仏陀が開いたとされる悟りは「やすらぎ」であったと言う人がいます。また、ある人は「無」、「無の世界」といい、「色即是空 空即是色」の世界であると言います。
 要するに「元々あった世界を実体験する」、言葉という道具を使って練り上げた「考えや思想」ではなく、この世界を言葉ではなく、事実として体験することではないかと思っています。
 解ったような気になることは、普通の生活の中でいつも起こっています。特に言葉によってなされた教育の中では、それしか答えを導ける方法がないからです。
 しかし、人はみな「座禅」によって得られる、「不立文字」の経験はしているのです。
 例えば、金槌をもって釘を打つ、水の上に浮いて泳ぐ、自転車に乗る、車を運転する。もう、数え上げればキリがありません。
 そうです、言葉で説明してもこれらの事は、できません。そういう事実体験を「座禅」でしてみようという事です。

 達磨大師って、聞いたことがあると思います。ダルマさんです。中国に「禅」の根本思想を伝えたとされています。その思想は「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」で、「経典や言葉に頼ることなく(不立文字)、説かれた言葉以外に真理が存在し(教外別伝)、仏性をもつ本来の自分に気がつくこと、これが悟りである(直指人心・見性成仏)」(『禅の本』「禅の思想」より抜粋)
 正に、「悟り」を端的に表しています。
 
 人間がどんな世界に生まれどんな世界で死んで行くのかを、生きている内に、「あっ、そうか」と気づくための方法です。

 東京大学を含め相当の賢い人達や、若いころから仏門に身を置き、仏陀の歴史やその教義・経典を学び、分析し、その思想や経典に魅せられ、信仰を深められています。
 信仰心もなく、学力や学識にも欠ける、凡人の代表たる私などは、「座禅」は、恰好の方法です。「*只管打坐」ただ座ればよいのですから。
 私は 不動智神妙録に記されている、全ての答えが「座禅」にあると、考えています。
 そして、私は、また空手道の「型」に、動く禅としての意味合いを重ねて、「うつ」事が要旨でもあると思っています。

 次回は、実体験も含めて、「禅」の効果にも触れて見たいと思っています。

【文字の説明】
*警策:〘仏〙 禅宗で、座禅中の僧の眠気や気のゆるみを戒めるためなどに用いる棒。長さ四尺二寸(1.3メートル)ほどで先が板状。きょうさく。
*不立文字(ふりゅうもんじ) 禅宗の基本的立場を示した言葉。悟りは言葉によって書けるものではないから、言葉や文字にとらわれてはいけないということ。教外(きようげ)別伝と対で用いられることが多い。
*教外(きようげ)別伝 禅宗で、悟りとは言葉や文字で示せるものではなく、直接心から心へと伝えられるものだということ
出典:大辞林 第三版 三省堂.
*釈迦:[生]前463頃.カピラバストゥ,ルンビニ[没]前383頃.クシナガラ仏教の開祖。釈迦牟尼 (むに) ともいう。釈迦は種族名 Śākyaの,牟尼は聖者を意味する muniの音写。釈尊は釈迦牟尼世尊の略称と考えられる。シャカ族の国王浄飯王を父とし,摩耶夫人を母とし,姓をゴータマ Gotama (瞿曇〈くどん〉) ,名をシッダールタ Siddhārtha (悉達,悉陀) という。生後まもなく母を失い,叔母の手で養育された。 16歳で結婚,息子ラーフラをもうけたが,29歳のとき意を決して出家。修行の末,35歳頃ブッダガヤーの菩提樹の下で悟りを開き,ブッダ buddha (仏陀 ) ,すなわち覚者となった。ワーラーナシの郊外サールナートの鹿野苑で最初の説法を行い,以後 80歳で没するまで,ガンジス川流域の中インド各地を周遊して人々を教化した。
出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
※釈迦については、色々な情報があって定かではないが、色々ある中で、一番妥当性があると思われたものを参考にした。「悟り」後、覚者の称号を得て「ブッダ(仏陀)」と呼ばれたのだから、仏陀(ブッダ)と呼ぶべきとも思う。
*只管打坐 ひたすら座禅に励み、打ち込むこと。打座は「坐する」と言う意味。祗管打坐とも書く。日本曹洞宗の開祖、道元は只管打坐が仏法の正門であるとして、禅の修業の最高位に置いた。

【写真】柳生新影流の正木坂道場(柳生の里)にて、地元の剣道の人達と合同で夏季合宿をし、座禅をしている所です。
道着を着てメガネをかけているのが私です。

【参考文献】
・太田雅男・大森崇・小向正司・高木俊雄(1992) 『禅の本』株式会社学習研究社.
・村瀬玄妙(1980)『禅問答入門』株式会社日本実業出版社.
・紀野一義(1966-1983)『禅 現代に生きるもの』日本放送出版協会.
・禅心滋光(1994)『SUPER ZEN』KKベストセラーズ.
・朝比奈宗源(1973)『覚悟はよいか』PHP研究所.
・無能唱元(1981-1993)『新説阿頼耶識瞑想術』致知出版社.


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