【私宅尓おゐてのそむ心奈し】『私宅において望む心なし』と読みます。
言葉としては、難しくないと思います。久しぶりにすんなり頭に入ります。
前回の『物毎尓春起古の無事奈し』で言いましたが、『好き好む』や、今回の『望む』と言う意味合いで書かれてある事に、違和感を感じますが、逆に人間武蔵を浮かび上がらせているように思います。
武蔵は、どんな人生を送って、そんな気持ちになったのでしょう。
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江戸時代から芝居や読み物に『宮本武蔵』を取り上げ、その度に、色々な武蔵が登場したのでしょう。
現在では、やはり、その代表が吉川英治の『宮本武蔵』であろうと思います。
史実を深く研究されている、放送大学教授の魚住孝至氏と言う方がいます。 空手道という武道『求道』の中でも引用させてもらっています。
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現在のところ、史実に一番近いであろうと評判の、宮本武蔵を著作されています。題名は『宮本武蔵—–日本人の道』です。
今回のテーマである私宅を、武蔵は一生持つ事は無かったと推測できます。
この事は、ここで言われている『私宅において望む心なし』、のように望んで私宅を持たなかったのかと言うと、私は、少し違うのではないかと思っています。
武蔵は、放浪の旅を続けています。漫画の『バガボンド』の通り、放浪者ですから、私宅は必要なかったのではないかと、思っています。
ですから、望む必要も、無かったのでは、ないのでしょうか。
では、なぜ、この『独行道』に、わざわざ書き添えたのでしょう。私は、どうも意地悪なのでしょうか。本当に望まなかったのか、疑問でなりません。
私事ですが、いわゆる私宅を、6回替えています。それは、望んでの場合もありますし、仕方なく引越しを余儀なくされた事もあります。自分が思うとか思わないとか、望むとか望まないとか、考える余地は、ほとんど無かったように思います。親からは、根無し草と言われていました。
私の場合は、転々と住処を替える人生を送ってきましたが、武蔵は、転々とし、居候させてもらえる、境遇にあったのでしょう。これは、家族がいる場合と、独り身の場合で、状況が全く違ってきます。まして、居候させてもらえたり、滞在を喜んでくれる人がいたという事は、武蔵の人徳かも知れません。
それでも、武蔵は、家庭も私宅も望みながら、頑なに自分に言い聞かせて、そんな気持ちを、寄せ付けなかったのかも知れません。
ここでも、私は、求道者だからといって、一途に自分で戒律を決めてストイックに道を歩むことが果たして、良いのか迷うところです。
求道者と言えば、仏陀を思い起こします。仏陀も大変な苦行の末、苦行からは何も得られないと、悟りのために座禅を選んだと聞いています。
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何かを得るためには、失うものは、確かにあると思います。それが、バランスと言うものです。それは、人間が失ったと感じる世界感で、物質不滅の法則のように、プラスマイナスゼロでバランスを取っているのが、科学の世界では自然な出来事です。
すこし、分かりにくい言い方をしてしまいましたが、何が言いたいかと言いますと、何かを得るために、と言うのを少し幅を広くすれば、失うものも少なくて済みます。要は、一途や頑なな気持ちを少し広げて見る事です。
自分が正しいと思う事に、必要に拘っても、それが本当に正しいかどうか分かりません。よく、信念に従って、とか、自分の思う事をやり通しなさい。などと言う事を聞きますが、私は、その信念は、客観的に見て、大所高所から見て、正しいかどうかを考えてからでも、遅くないと思います。
【参考文献】
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
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