【 末々代物奈留古き道具所持せ寸】は、『末々代物なる古き道具所持せず』と読めるでしょう。もう少し現代人にも分るように読むと『のちのち価値がでるような古い道具は所持しない』と解釈する事ができます。
これも、前回同様『好き好む』の類に数えられると思います。この場合は、対象が『子孫』と言う事になるのではないでしょうか。
理由は、ただ自分が所有したい、あるいは、金銭目的ではないと思われるのは、『独行道』の、他の条から類推すると、同じ事が重なってしまうように思われます。やはり、ここでは『相続財産』としての『骨董品』と考える方がしっくりきます。
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私が、現在なんとか、暮らしていけるのは、物心ともに親のお陰以外の何ものでもありません。しかし、自分が子供に残せるものは、何一つありません。
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ただただ、言い訳にしか聞こえませんが、西郷隆盛が大久保利通に寄せた詩『偶成』の一節に、「一家の遺事人知るや否や、児孫の為に美田を買わず」があるそうです。聞きなれた言葉としては、『子孫に美田を残さず』でしょう。私の場合は、『子孫に美田を残せませんでした』になるのでしょう。
ここで、筆を置くと、単なる自虐ネタに過ぎませんので、もう少し、自分の事は棚に上げて置いて、武蔵の言葉に、耳を傾けて見ましょう。
(1)生き方・(2)住・(3)食・(4)子・(5)衣(持ち物)・(6)武具・(7)財宝・(8)行動について、武蔵は、心を動かさない事を誓の言葉としています。これらに、興味を示しては、修行の邪魔になると思ったのだと思います。
ここでは、(4)の子孫に対しての愛情も、修行にとっては乗り越えなくてはならない障壁であると思ったに違いありません。
ストイックである事が、兵法者のあるべき姿と思ったのだと理解しています。
確かに、物事をある程度の段階まで高めようとすると、そんな時期が必要と、今でも思っています。何もかも忘れて、没頭する時期がどうしても必要です。
『守・破・離』と言う修行の段階を示した言葉があります。 「五輪書」水之巻 序をはじめ、髓心ブログのあちらこちらに引用しました。
この「守」の段階では、あくまでもストイックな考え、行動が効果的です。そして、「破」となると、行動よりも考えや探求心に、ストイックさを求められます。「離」になったとき、今まで頑なに守ってきた、ストイックな考え方や行動から、解き放たれなければ、なりません。
私は、この段階で、初めてその人の個性が現れるものだと思っています。最近は、何でもかんでも、個性として自己主張を優先させますが、基盤があっての個性だと思っています。
武蔵も、そんな個性が確立するまでは、自らを律しなければならないと、考えたのだと思います。
【参考文献】
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
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