文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【75】 zuishin 6年前 スポンサーリンク 今日の文字は『無常むじょう』です。草書で書いています。『諸行無常』の『無常むじょう』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第七十四段』を読んで見て、感じた文字です。 原文 現代文を見る 無常 ★ 次の三連休あたりに、台風25号の影響があるかも知れません。何とも気を持たせる動き方をしています。 多分、近く幼稚園の運動会が予定されていると思います。どうなるのでしょうか。 今日の大阪は、曇り時々雨と言うところでしょう。気温もさほど上がらないようです。身体に気を付けましょう。 ★『初入閣:柴山文科相「省内ですれ違った際にはあいさつを」』という見出しを、MSNニュースの中の毎日新聞(2018/10/03 16:41)で見ました。 こんな、幼稚園児に教えるような事を、大の大人、それも省内と書いてありますから、文部科学省の職員に言わなければならないなんて、世も末ですね。 日本の教育の在り方を、根底から見直さなければなりません。外国の文化に追随することは、日本の文化の消滅を意味します。日本は歴史のある国です。胸を張ってこの国の文化を継承しましょう。 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。 徒然草 第七十四段 〔原文〕 蟻の如くに集りて、東西に急ぎ、南北に走わしる。貴たかきあり、賎しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、歸る家あり。夕に寝いねて、朝に起く。營む所何事ぞや。生を貪り、利を求めてやむ時なし。 身を養ひて何事をか待つ、期ごするところ、たゞ老と死とにあり。その來る事速かにして、念々の間に留まらず。これを待つ間、何の樂しみかあらむ。惑へるものはこれを恐れず。名利に溺れて、先途の近きことを顧みねばなり。愚かなる人は、またこれをかなしぶ。常住ならんことを思ひて、變化の理を知らねばなり。 スポンサーリンク 『現代文』 まず、我流で現代文にしてみましょう。 『蟻のように集まり東西に急ぎ、南北に走る。高い身分の人がいて、低い身分の者もいる。老人も若者もいる。行くところも帰る家もある。夜になると寝て、朝起きる。生きる理由はなぜだ。生きる事に欲深く、利益を求めて止める事がない。 養生して何を待っているのか。期待しても老いと死があるだけである。思わぬ速さで時は過ぎ、瞬間にも止まる事はない。これを待つ間、どのような楽しみがあるのか。 欲深い者は、恐れもしない。名誉や利益に溺れ、人の死の近い事を顧みる事がない。愚かな人は死を悲しむが、永久に不変でいようと思うのは、世の中が変化するのが理ことわりである事を知らないからである。 』 『無常』 この段を、現在の生活に当てはめて作文を書いて見ました。 大都会のターミナル駅の様子を見ると、人が蟻のように集まり、西に東に、そして北へ南へと、忙しそうに歩いています。走っている人もいます。そして、止まってその様子を眺めている人もいます。 そこには、老若男女の区別なく、そして多種多様の職業の人が、職場に向かい、そして仕事が終われば、夜遅く家路につきます。朝方仕事を終える人もいますし、遊びに行く人も見られます。それぞれの生活に合わせて、行き交います。 夜になると寝て、朝になると、朝食もそこそこに、出かけていきます。場合によっては、朝食も摂らずにいそいそと家を後にします。 子供も大人に負けじと、学校に、習い事に、大忙しの一日を送っています。 そんなに、休む暇もなく働くのは、一体何のためでしょう。 生きる為なのか、少しでも豊かな生活を求めているのか、その貪欲さは止まることがありません。※ 健康に対して異常なまでに執着していますが、幾ら養生しても結果は、老いと死しかありません。※ 老いを迎え死を迎える事は、思いのほか速く、一瞬の休みも無くやってきます。この僅かな時間を何を楽しみに過ごすのでしょう。 それでも、生きる事に固執する者は、恐怖心さえ起らない。なぜなら、名誉や財産を得る事にやっきになり、死さえ眼中にない。 考えの浅はかな人、あるいは知識の薄い人は、死を悲しむが、人が永久に生き続ける事が出来ない事は、自然の法則であることを知らないからです。 こんな物語になると思います。 また、この物語に難癖をつけて見たくなりました。 前半部分の描写は、実に現在の様子の一部を切り取った情景で、目に浮かぶようです。 しかし、『生きる為なのか、少しでも豊かな生活を求めているのか、その貪欲さは止まることがありません。※』の文章には、随分と飛躍があると思います。 誰もが、貪欲な気持ちを変えることなく、突き進んでいる分けでは無いと思います。 仮にそう見えるとしても、自らの意思でそうしているのではなく、流されている人が大半です。 立ち止まろうとするのでもなく、追い求めるのでもなく、時代の波に呑まれているのが現状だと思います。 夏目漱石の「草枕くさまくら」の有名な冒頭に『山路を登りながら、かう考へた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』とあります。 この「草枕くさまくら」は1906年に発表されていますから、明治時代の日露戦争が終わった翌年ですね。ですから、現在とは違いますが、その当時の人の生き方がクローズアップされていると思います。 今でも人は、この文章の様に、ただ蟻のように考える事もなく、時の流れに呑み込まれているだけではない人もいると思います。 いや、たとえ呑み込まれていたとしても、紆余曲折、迷いながら人は、人生を生き抜いているのです。これは、現在でも変わらないと思います。 次の言葉に『健康に対して異常なまでに執着していますが、幾ら養生しても結果は、老いと死しかありません。※』とありますが、私も健康には随分と言ってもそこそこ気を使っています。 それは、『座して死を待つ』と言う言葉がありますが、そんな気持ちはさらさらありません。自分の身体を労いたわることと、「老死」を結びつけるのは早計だと思います。 もちろん、健康志向に執着して視野が狭くなって、反って身体を壊してしまうことにもなりますから、ほどほどが良いと思います。いわゆる潔癖症や拒食症のように、病的になってしまっては、元も子も無くなるでしょう。 私が早計と思うのは、『老死』は避けられない事実ですが、健康は注意すれば、寝たきりになる事を防ぐことが出来ます。 私は、老いと死は、一部では密接な関係がありますが、老いたから死ぬのではなく、生きられなくなるから死ぬと思っています。それは運命かも知れませんし、天命と言うのかも知れません。ですから、その寿命が尽きた時に死ぬのです。 若くして死ぬ人も沢山見てきました。身近な人でも、『なんで!』と思う事があります。しかし、それが生命だと思っています。 時計でさえも、分解掃除によって、寿命を延ばし、寿命まで時を正確に刻んでくれます。もちろん、機械にも寿命があります。そして、寿命まじかになると時を正確には刻む事が出来なくなります。 そんな時には修理する必要が出てきます。修理された時計は、また正確な時を刻み、私達に時を知らせてくれるようになります。 時計の場合は、機械ですから、修理の方法で、部品を取り換える事もできますから、半永久的に新しく生まれ変わります。 現在の医療では、これに似たような、移植とか再生医療が行われていますが、これが良いのか悪いのか私には判断できません。しかし、これも人間の歩む道なのでしょう。 兼好法師の時代とは、背景が変わっていますので、一概には言えませんが、私は、死ぬことは、覚悟だと思っています。 覚悟と言っても、覚悟しても、しなくても、死は遠からずやってきます。その時まで、人間としての役割を十二分に果たせるようにする事も、人間として生きる証明だと思っています。これが人間として生きる覚悟だと思っています。 『老死』は、結果です。その原因は『生』と言えるでしょう。ならば、原因と結果の間には、経緯があります。それが人生です。 物事を結果で判断して評価するのは、他人です。自分が出来る事は、如何に経緯を有効に過ごせるかと思うのです。それが喜びにもなり、生きる意味にもなると思います。 何も、諦あきらめる事が『諦観ていかん』ではありません。事実を事実として受け入れ、認める事が何よりも大切な事です。 『諸行無常』は、現在では、事実です。短い時間、悠久の時から比べれば、ほんの一瞬の人生だと思いますが、如何に生きるかが人として生まれた本分ではないかと思います。 年老いて、何が問題なのでしょう。それは動けなくなる事が最も問題ではないかと思っています。自分の事は自分で出来る事がなによりです。 その為に、先述した通りそこそこ健康には気を配っています。食生活も重要かも知れませんが、私は、体操を第一に考えています。 私が体操と言うのは、身体を操縦できる事を言っています。ですから、体操と、運動、鍛練とに分けて考えています。 毎朝、最低限体操をやります。これは10分から20分で済まします。そして体調が良い時には、運動もします。これで合計1時間10分程度かかります。鍛練は気が向いた時にする事にしています。 この体操・運動のカリキュラムは、3ヵ月に1度は作り直しています。早い時は1ヵ月でも変更します。飽きっぽい性格だと思います。それでもカリキュラムを変える事によって継続する事ができるのでしょう。『継続は力』と言いますから。 死を迎えるまでは、人間として全うしたいと思います。『無常』と言う言葉を、「儚い」とか、「切ない」、あるいは「悲しい」と捉えないで、『諸行無常』、変わる事が世の定めと思えば、この 変化を楽しむ事も人生だと思います。たとえ、この一瞬に死を迎えるとしても。 スポンサーリンク