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文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【126】

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 今日の文字は『両刃りょうば』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百二十五段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 両刃

 
『安倍首相「経済活性化の起爆剤」=大阪万博開催』
(時事通信社 2018/11/24 01:54)

「安倍晋三首相は24日未明、2025年国際博覧会の大阪開催が決まったことを受け、「大変うれしく思う」と歓迎するコメントを発表した。「素晴らしい万博を実現するため、引き続き、大阪・関西の皆さまをはじめ、オールジャパンの体制で、全力で取り組んでいく」と強調。「日本の魅力を世界に発信する絶好の機会でもある。わが国を訪れる観光客が増大し、地域経済が活性化する『起爆剤』になると確信している」とした。」

 前に大阪で万博があったのが1970年といいますから、今から48年前になります。

 私は、東京にいましたが、帰郷し家族で万博を見に行った記憶が薄っすら残っています。

 その時の万博会場で、日本空手道致道会のメンバーは、笹川静江さんの詩吟に合わせて、空手の型の演武を披露したと思います。事情があり残念ながら私はそのメンバーには入りませんでした。

 岡本太郎画伯の太陽の塔が有名でした。前の万博を契機に周りの交通網が発達した記憶はありますが、それ以外の印象は今はもうなくなってしまいました。半世紀ですから、当然ですかね。

 さて、今回の万博は、経済の起爆剤と言う発想から、原点に戻って、日本の文化、科学を世界に発信する機会になればと思います。

 世界から見ると、日本はまだまだよく知られていないような気がします。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百二十五段 〔原文〕

 人に後れて、四十九日の佛事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくして皆人涙を流しけり。導師かへりて後、聽聞の人ども、「いつよりも、殊に今日は尊くおぼえ侍りつる」と感じあへりし返り事に、ある者の曰く、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなむ上は」と言ひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。さる導師のほめやうやはあるべき。

 また「人に酒勸むるとて、おのれまづたべて人に強ひ奉らんとするは、劒にて人を斬らむとするに似たる事なり。二方に刃つきたるものなれば、もたぐる時、まづ我が頚を斬るゆゑに、人をばえ斬らぬなり。おのれまづ醉ひて臥しなば、人はよも召さじ」と申しき。劒にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『 人に先立たれ、四十九日の法事に、ある高僧を招いたところ、説教が素晴らしく、皆涙を流した。導師が帰った後、聴聞の人達「いつもより殊更に今日は尊く感じた」と感じ入ったところ、ある者が「なんと言うか、あれほど、唐の犬に似ているのだから」と言うと、しみじみとした気持ちも醒めて、可笑しくなった。このような適当な導師の褒め方があるのか。

 また、「人に酒を勧めるにも、自分が真っ先に飲んでから人に強いるのは、つるぎで人を斬ろうとするのに似ている。両刃のつるぎであれば振りかぶる時、先に自分の首を斬ってしまうので、人を斬る事ができない。自分が先に酔って寝てしまい、人はいくら何でも飲まない」と言っていた。剣にて斬り試した事があるのか、とても可笑しかった。』

 

 

『両刃』

 これは、ただ面白い話を二つ披露したと思います。『また』、と話を繋げていますが、全く内容に繋がりを感じません。

 ある徒然草を現代文にしてインターネット上に公開している人が、「剣は必ず諸刃ではるわけではない」と書かれていました。

 今ではつるぎは、両刃の事を言うと思います。刀と太刀は片刃を言い、それぞれに使い方が違います。刀と太刀の中間の物もありますが、この半太刀と言うものは見た事がありません。

 この段の原文にも『二方に刃つきたるものなれば』つるぎについての説明がされているので、ここでは両刃と限られています。

 ただ、宮本武蔵のような兵法者であっても、五輪書の中で、太刀と刀を混同した書き方をしていますので、当時は、つるぎも太刀も刀も、呼び名に拘りが無かったのかも知れません。今でも竹刀を使っているのに、剣道と言いますし、剣術とも言いますから、あまり厳密に言わないのかも知れません。

 つるぎの話は兎も角として、刀であっても太刀であっても、相手を斬ったり刺したりする道具ですから、扱い方さえ間違えなければ、自分自身を傷つける事はありません。もちろん扱いに慣れていなければ、足を斬ったり、指を切ったりする事は稀にあると思いますが、首を斬る事は、想像できません。

 ですから、確かにこのつるぎの話を持ち出した人は、つるぎも刀も使った事は無いでしょう。

 しかし、私が感じるのは、兼好法師の引用の仕方も、五十歩百歩だといつも思っています。

 この話も笑い話にしては、何が可笑しいのか分かりません。

 仮に冒頭の話を第一話としましょう。確かに場違いな事を突然いう、KY(空気読めない)な人は居ますが、そんな人の話を聞いて、可笑しいと思うでしょうか。私なら非常識と、その人を馬鹿にするかも知れません。しかも、どうとらえれば、『あれほど唐の狗に似候ひなむ上は』と中国の犬に似ていると言った事で座が白けるのは解りますが、なぜそれが導師を褒める事になるのでしょう。まったくもって理解に苦しみます。

 前にも書きましたが、「唐」と中国の事を言っていますが、本当に鎌倉時代には、『元』の事を『唐』と言ったのでしょうか。いつか調べて見たいと思います。

 確かに私が空手を知った時には、一般的にはまだ『唐手』と言っていた事が思い出されます。

 第二話では、引用したつるぎが話しをややこしくしているようですが、話しの内容は、そこに相手が言いたかったことがあったとは思えません。

 そのつるぎを引用した人は、人に酒を勧めるなら、まず相手に勧めるのが礼儀だろう、自分が先に飲んでから勧めるものではない。と、言っているのだと思います。まして、飲み過ぎて寝てしまうような人は、人と酒を酌み交わす資格がない。

 そんな事を言いたかったのだと思うのですが、私がこの話を聞いたら、引用する物が違うだろうとは思いますが、内容は頷けます。

 私からすると、これまでの徒然草を読んで、兼好法師の引用の仕方は、このつるぎを引用した人と同様の引用の仕方と思うところがありました。

 であれば、人の事を言う資格はない、と兼好法師に言いたいところです。

 この引用の仕方も、読み方によっては、引用らしさも出来ます。酒は、確かに場を盛り上げて、楽しく歓談する脇役としては最適かも知れませんが、飲み過ぎると、自分勝手に振舞ったり、喧嘩の基になる場合もあります。

 ほどほどにしないと、酒はつるぎのように両刃ですから、自分も酒に飲まれてしまうかも知れません。こう書けば、引用としてつるぎも可笑しくはならないと思うのですが。

 ただ、この引用の仕方も、時代によって引用する事が違うと思いますので、私が兼好法師の引用を、このつるぎと同等に扱うと、兼好法師から反論があるかも知れません。

 『唐』も『つるぎ』も、もう少し詳しく調べないと、何となく心残りですが、機会があれば調べて見ますが、歴史は専門家にお任せした方が良いのかも知れません。

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