文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【130】

 今日の文字は『こころ』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百二十九段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 

『若者層が共産党を“保守”、自民党を“リベラル”と見る理由』
(NEWS ポストセブン 2018/11/28 07:00)

「若者達にとって増え続ける高齢者は、自分たちの幸福な世界を脅かす「難民」だと作家の橘玲氏は指摘する。その高齢者が支持するものは若者にとって「保守」であり、高齢者が「保守」だとみなすものを若者を「リベラル」だと見なすという逆転現象まで起きている。橘氏が解説する。

 * * *

 若者たちが求めるのは、年金などの社会保障制度を持続可能なように改革することだが、これはすなわち高齢者の既得権を破壊することだ。それに対して、「難民化」しつつある日本の高齢者層のなかには、なんの資産ももたず年金以外に収入のないひとたちが膨大にいる。このひとたちは年金が減額されると生きていけないので、どんなことをしてでも既得権を死守しなくてはならない。

 若者は高齢者を「排斥」しているのではなく、年金なしで自分たちはどうやって老後を生きていけばいいのかを知りたいと思っている。しかし政治家もリベラルな知識人も、もちろん当の高齢者も、この疑問に答えることができない。こうして日本の社会は、世代間で分裂していく。

 世論調査では、高齢者層が自民党を保守、共産党をリベラルと考えているのに対し、若者層は逆に、共産党を保守、自民党をリベラルと見なしている。しかしこの奇妙なねじれも、若者たちが「改革」を掲げる安倍政権を支持し、高齢者があらゆる改革を拒絶していると考えれば理解できるだろう。

 新聞やテレビなどのオールドメディアは、保守かリベラルかにかかわらず、いまや読者・視聴者の大半が高齢者になり、彼らが喜ぶ紙面や番組をつくるなかでどこも頑迷な守旧派になり果てている。高齢者を批判する内容は最大のタブーだ。若者が右傾化したのではなく、かつての「リベラル」が右傾化したことで、世代によって「右」と「左」が逆転してしまったのだ。

●たちばな・あきら/1959年生まれ。2002年国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。『言ってはいけない』(新潮新書)、『朝日ぎらい』(朝日新書)、『80’s エイティーズ』(太田出版)など著書多数。

※SAPIO2018年11・12月号」

 この記事を見て、徒然草と同じような気持ちを持ちました。徒然草の場合は、徒然なるままに、と序文で断っていますので、主旨がはっきりしなくても、少しは言いたい事が掴めるようになりました。

 しかし、この文章は、何度読んでも、この、たちばな・あきらさんが何を言いたいのか、良く分かりません。ですから、全文を引用しました。

 世代によって「右」と「左」が逆転したとして、それがどんな意味を持つのでしょう。共産党はリベラルの時代はあったのでしょうか。私には疑問です。

 もし、リベラルと言うのが、何でも反対主義であれば、確かにそうでしょうが、本来の共産党は、リベラル、則ち自由主義的であるはずが無いとおもいます。今の共産党は、共産主義から社会主義に主義を変更した党であると、理解しています。

 著書多数とありますから、作家なのでしょう。小説や書籍であれば、どのような文学的な書き方をしても、良いのでしょうが、少なくとも記事は、私のようなものでも、すんなり読めるような文章にしてもらいたいと思いました。

 この記事の冒頭にある『若者達にとって増え続ける高齢者は、自分たちの幸福な世界を脅かす「難民」だ』と言うのは、このたちばな・あきらさんの主張と言うのは解ります。その次に続く文章にこの主張を裏付ける言葉がありません。

 やはり私の読解力の問題かも知れません。もう少し勉強する必要がありそうです。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百二十九段 〔原文〕

 顔囘は、志、人に勞を施さじとなり。すべて、人を苦しめ、物をしいたぐる事、賎しき民の志をも奪ふべからず。また、幼き子をすかし、おどし、言ひはづかしめて興ずることあり。大人しき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心には、身にしみて恐ろしく、恥づかしく、浅ましき思ひ、誠に切なるべし。これを惱して興ずる事、慈悲の心にあらず。

 大人しき人の、喜び、怒り、哀れび、樂しぶも、皆 虚妄なれども、誰か實有の相に著せざる。身を破るよりも、心を痛ましむるは、人をそこなふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より來る病は少なし。藥を飮みて汗を求むるには、しるしなき事あれども、一旦恥ぢ恐るゝことあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲の額を書きて、白頭の人となりしためしなきにあらず。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『 顔回の心がけは、他人に苦労をかけまいということである。どんな事でも人を苦しめたり、物をしいたげる事で、民の気持ちを煩わしてはならない。

 また、幼い子をすかし、おどし、からかって遊ぶ事がある。大人は、本当では無いのだから、問題にしようとしない。しかし幼い子の心は心底恐ろしく、恥ずかしく感じ、いつまでも心に残る。子供の心を悩ませて喜ぶことは、慈悲ではない。

 大人の、喜び、怒り、哀れみ、楽しみも、皆 虚妄であるが、誰もが実際にあるように執着する。

 身体を傷つけるより、心を痛める方が、人を苦しめる。

 病気も多くは心が原因で、外部から受ける病気は少ない。

 薬を飲み発汗させようとしても、効果がない事もある。ひとたび恥じたり、恐怖を感じると必ず汗をかくのは、心が原因である事を知る必要がある。

 凌雲の額を書いて、白髪になった例もないことはない。』

【参照】
顔回:[前522ころ~前490ころ]中国、春秋時代の魯 (ろ) の人。字 (あざな) は子淵 (しえん) 。孔門にあって、学才・徳行ともに第一位とされ、最も孔子に愛されたが、師に先立って死去。顔淵 (がんえん) 。→孔門の十哲
(出典:大辞泉 小学館.)
凌雲の額:中国、魏の文帝が洛陽に築かせた楼閣。額に凌雲観と書かせるため書家を楼上に登らせたが、恐怖のため下りてきたときには頭髪が雪のように白くなっていたという。凌雲観。
(出典:デジタル大辞泉 小学館.)

 

 

『心』

 顔回と言う人の事は、このブログでも『論語を読んで見よう』で、何度も登場した人物です。顔回と言う人は、顔淵とも言われます。孔子が最も信頼していた弟子だったと思わせるような事が『論語』にはありました。

 『顔淵死、子哭之慟、従者曰、子慟矣、子曰有慟乎、非夫人之為慟、而誰為慟』【先進篇11-10】
 現代文に私がした意訳は、
『顔淵死す。先生は慟哭された。従者が、「先生、号泣されましたね。」と先生に言うと、先生は、「彼の為に号泣せずに、誰のために号泣する事があるだろう」と言われた』。

 また、顔回がどのような人であったかを知るために、『論語を読んで見よう【雍也篇6-11】』を次に紹介します。

●白文 『子曰、賢哉回也、一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、回也不改其楽、賢哉回也』。
●読み下し文『子曰のたまわく、賢なるかな回かいや、一箪いったんの食し、一瓢いっぴょうの飲いん、陋巷ろうこうに在り。人は其その憂うれいに堪たえず、回は其の楽しみを改めず。賢なるかな回や』。【雍也篇6-11】

意訳『先生が、顔回は偉い。僅かな食べ物、瓢箪に入った水、狭く汚い路地に住んでいる。普通の人はそのつらさに耐えられない、顔回はその生活を楽しみ、変えようとしない。回は、実に偉い』。  

「賢」と言う文字を、偉い、と訳しましたが、漢字からは、賢いと訳すべきと思いましたが、内容から見ると、人格が優れているように思ったので、偉い、としました。賢者と言うのも偉い人なのでしょうが、まったく私の勝手なイメージです。
 偉いと言っても、その人の考え方により、色々違うものと思います。私は、初めに書きましたが、沢庵和尚や種田山頭火のような、一種、世の中を達観した感じをイメージしましたので、偉いとしました。

 

 顔回は、自分が人に対して、迷惑にならないように、心がけたのだと思います。

 兼好法師は、人の心を弄ぶような事をしてはならないと言う意味で、この段を書いているのだと思いますが、顔回は、人の心をどうかしようとは思っていないと思います。只管、自分が人に世話にならないよう心がけたのだと思います。

 顔回を引き合いに出した事と、繋がりが感じられませんが、その後に続く言葉は、兼好法師の言う事に異論はありません。

 ここに書かれてある一つ一つが納得できる事です。

 一つは幼い子は、大人の不用意な言葉に心を痛め、それが大人になるまで続く事もあります。

 確かに、私も親戚の叔父さんと叔母さんが話しているのを、子供の頃に小耳に挟んだ事がありました。

 私が一歳上だからと、その家の息子(従弟)に偉そうにしている、と言った内容だったと思います。

 この言葉がずっと私の心に残っていたと思います。別に心が痛んだ分けではありませんが、解らないと思って、大人が言った事が、意外と子供は理解し、気分を悪くしている可能性はあると思っています。

 今では、孫に対して不用意な言葉を言わないように注意しています。それでも、何となく他意もなく言った言葉が相手を傷つける事もあります。特に子供に対しては配慮すべきでしょう。

 二つ目は、豊臣秀吉の辞世の句『露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢』のように現世は虚妄、すなわち「うそいつわり」であるのに、執着する人間の心を言っています。これは、仏教的な考えで、現世は虚妄と言うのは、実際にはどうか分かりませんが、それでも、人生の中で、豊臣秀吉のように思う事もあると思います。

 三つ目は、 身体を痛められても、癒える事はあるが、心の痛みは癒える事が無いと言っています。これも、時が解決してくれる場合もありますし、違った解決方法が来るかも知れません。それこそ諸行無常です。

 前にも書きましたが、小学校から高校を卒業するまで、先生には鉄拳制裁を受けて成長してきました。その時に思った事ですが、痛みは直ぐに消え、そして自分が悪かった事を反省できたと思います。しかし、ネチネチと説教が続くと、いつまでも心が晴れる事が無かった経験で言えば、鉄拳制裁の方が私には向いています。

 もちろんこれも今の時代は、鉄拳制裁を良しとしない風潮が正しいとされていますから、現状は通用しません。私は程度のある事と思っています。

 四つ目に、病は気からと言っています。当時はそのように考えざるを得なかったのかも知れませんが、現在では、心的な原因以外に、細菌やウイルスによる感染症が認識されています。

 それでも心的な原因で起こる病が多い事も認識しています。このブログにも紹介していますが、軟酥の法も心的な原因で起こる病に対して効果のある方法だと思っています。

 五つ目は、 恐怖心や羞恥心により体に変化が起こる事を書いています。確かに現実に起こる事です。この中に「凌雲の額」を引用して恐怖心が頭髪まで白くしてしまうと言っています。

 私が頭が白くなり、髪の毛が無くなったのは、恥ずかしいからでもなく、恐怖によってではないと思いますが、確かに羞恥心があると、顔が紅潮します。
 中学生の時は、紅顔の美少年、いや、ゆでダコと言われていた事もありました。

 緊張によって手が震えたり、汗をかいたりするのが人体の機能だと思っています。

 こうやって、五つの事を並べて見ると、人生のあらゆるところで、心の要因によって、大きく人に禍をもたらします。兼好法師の言わんとする所は、そんな事だと思います。

 顔回の志が、この五つの事とどのように関わって来るのか、私には理解できません。

 間接的には心の問題として大きな枠内には入るのでしょうが、それでも顔回は、人に迷惑を掛けず、世話にならず、ひっそりと生きた人だと思っています。

 確かに顔回のような生き方をすれば、子供に不用意な言葉も言わないでしょうし、物事に執着しているとも思えません。

 しかし、三つ目から最後の五つ目は、顔回のように生きても、志を持っても、本人の事ですから、ここで文脈が主客逆転してしまっています。

 私がこの段を読んで、違和感を感じたのは、このような文脈だったからだと思いました。

 と、そこで、心をテーマにして、色々列挙した文とすると理解できました。

 一つ目の前に、顔回の志が引用ではなく、一つの心の在り方とすれば、後の五つも独立した文と解釈することで解決します。

 であれば、関連性は無いが、心をテーマに、六つの文が書かれていたと思う事にしました。

 本当に、文学と言うのは、ややこしいですね。