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文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【135】

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 今日の文字は『かがみ』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百三十四段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 

『対日関係への影響回避を=歴史問題で韓国大統領』
(時事通信社 2018/12/03 06:46)

「【ソウル時事】韓国の文在寅大統領は、最高裁が徴用工訴訟で日本企業に賠償を命じたことなどを念頭に、「歴史問題のために、今後(日韓間で)未来志向的に発展させるべきであるさまざまな協力関係が損なわれてはならない」と強調した。その上で、「歴史問題は歴史問題として別途、賢く処理しながら、未来志向的な協力をしていかなければいけない」と述べた。

—–中略—–

文氏が最高裁判決以降、歴史問題に公の場で言及したのは初めてだが、具体的な対応は示さなかった。」

 しばらくは、隣国のやり方を静観して、どのような国なのかをしっかり見定める必要があると思います。

 もちろん、十分に認識しているとは思うのですが、ツートラック(2路線)と中略のところに記載が見られますが、言葉は匠ですが、二枚舌としか受け取れません。

 日本でも個人的にはそういう人を見かけます。人間関係でも、悪い関係を修復せずに、あの時の事は、別にして、今回は、と言うロジックについて行けないのは、私のみの考えとも思えないのですが。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百三十四段 〔原文〕

 高倉院の法華堂の三昧僧さんまいそう何某なにがしの律師とかやいふ者、ある時、鏡を取りて顔をつくづくと見て、我がかたちの醜く、あさましき事を餘りに心憂く覺えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後長く鏡を恐れて、手にだに取らず、更に人に交はる事なし。御堂の勤め許りにあひて、籠り居たりと聞き傳へしこそ、あり難く覺えしか。

 賢げなる人も人の上をのみ計りて、己をば知らざるなり。我を知らずして、外を知るといふことわりあるべからず。されば、己を知るを、物知れる人といふべし。かたち醜けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、藝の拙きをも知らず、身の數ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道の至らざるをも知らず、身の上の非をも知らねば、まして外のそしりを知らず。たゞし、貌は鏡に見ゆ、年は數へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべき方のなければ、知らぬに似たりとぞいはまし。かたちを改め、齡を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、何ぞやがて退かざる。老いぬと知らば、何ぞ閑にゐて身をやすくせざる。行ひ愚かなりと知らば、何ぞこれを思ふ事これにあらざる。

 すべて人に愛樂あいぎょうせられずして衆に交はるは恥なり。かたちみにくく心おくれにして出で仕へ、無智にして大才たいさいに交はり、不堪ふかんの藝をもちて堪能の座に連なり、雪のかうべを戴きてさかりなる人にならび、況んや、及ばざることを望み、叶はぬことを憂へ、來らざる事を待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の與ふる恥にあらず、貪る心に引かれて、自ら身を恥しむるなり。貪ることのやまざるは、命を終ふる大事、今こゝに來れりと、たしかに知らざればなり。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『高倉院の法華堂の三昧僧さんまいそう何某なにがしの律師とか言う者、ある時鏡でつくづくと見て、自分の要望の醜さを呆れるほどひどく情けなく思い、鏡さえ避けたい気持ちになり、その後ずっと手にする事もなく、さらに人に会う事もなかった。御堂の勤める所に出て、引き籠っていたと伝え聞いたが、貴重な事であると思った。

 賢そうな人も人の身の上だけを考え、自分を知らない。自分を知らずに他人を知る論理は成り立たない。だから、自分を知る人を、物を知っていると言える。容貌が醜くいと言う事を知らず、心が愚かな事も知らず、芸の拙さも知らず、身分が低い事も知らず、老人になっている事も知らず、病におかされている事も知らず、死の近づいた事も知らず、修行の道も至っていない事も知らず、自分の身の上が正しくない事も知らなければ、まして他人が自分に言う悪口も知らない。ただし、外見は鏡を見れば分る、歳も数えれば分かる。まったく自分の事を知らない分けでは無いが、知っていてもどうすれば良いか判らなければ、知らないのと変わりが無いと言える。外見を改め、歳を若くしろと言うのではない。なぜただちに退かない。老いていると知れば、静かに体を休めないのか。行いが愚かだと知ったら、なぜこの事を考えないのか。

 大体、人に親しみ愛されてもいないのに、人々と交際しようとするのは恥ずかしい。容貌が醜く気おくれしながら、勤めに出、無知であるにもかかわらず、すぐれた才能の人と交際し、優れていない芸なのに、優れた人と一緒に同席し、髪の毛は白髪なのに、若い人と肩を並べ、尚更、レベルが高い事を望み、達成できない事を悲しみ、来ることがないものを待ち、他人を恐れ媚びを売るのは、人が勧める恥ではない。欲深い心に引かれ、自分で自分を辱めているのだ。貪る事が止まないのは、命が終わる大事が、今ここに来ているのを、自覚出来ていないからである。』

 

 

『鏡』

 まぁ、よくこれだけ並べ挙げられたと思うほど、言われてしまいました。

 確かに、随分昔から、電車に乗って、窓に映る自分の姿を見て、「誰?」と思う事がありました。その内だんだん慣れてはきましたが、醜いとは思いませんが、みっともない部類に入ります。

 そして、だんだんと髪の毛が白くなり、ついにはその真っ白の髪の毛も無くなり、春の若草山のような有様です。

 妻も友人に会わせたくないようですから、余程醜くなっているのかとも思います。

 自分では、慣れてしまって、それほどでは無いとは思っていますが、この段を読んで、引導を渡されたような気分になりました。

 まぁ、外見は兎も角(勝手に兎も角とします)、結局兼好法師の言い方は支離滅裂に聞こえますが、この全てに当たらないまでも、一つや二つは自分を客観的に見ていないふしもあると思います。

 個人的な見解ですが、『我を知らずして、外を知るといふことわりあるべからず』と言う事には反論します。

 これは、前にも書いたように、『 ジョハリの四つの窓』にあるような見方も出来ますが、往々にして人の事は分かっても自分の事は分からないのが、人と言うものです。ですから、「人の振り見て我が振り直せ」も格言として生きてくると思います。

 続いて『己を知るを、物知れる人といふべし。』とありますが、確かに当たらずとも遠からずで、自分を知る事は並大抵の事ではありません。しかし、だからと言って、それは人格的に優れているとは言えても、物を知っている人とは限りません。

 そして、諸々もろもろ自分を知らず人から陰口をたたかれている事も知らないからと言って、なぜ静かに休まないとならないのか、疑問に感じてしまいます。

 私なら、そんなに悪い自分であれば、一つでも直そうとします。逆に静かに暮らせなくなります。もちろん、外見は直そうにも直りようがありませんが。

 『すべて人に愛樂あいぎょうせられずしてとありますが、なぜ、人に愛されていないと断定するのでしょうか。愛されていないかも知れませんが、少なくとも気心が知れて親しんでくれる人の、一人や二人はいそうなものです。と、思います。と、だんだんトーンが低くなって・・・・・・。

 そして、なぜ賢さや、芸事を他人と比べて競い合わないといけないのでしょう。そんな事は、我道を行けば良いと思います。

 上手い人がいるから、励みにもなり、賢い人がいるから一歩でも近づこうとするのではないかと思う方です。比べるのは自分の向上のためにする事だと思います。

 『及ばざることを望み、叶はぬことを憂へ、來らざる事を待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは』と言う人ばかりではありません。

 加藤諦三氏著作の「自明性の時代」にもありましたが、追う事を止めてしまう事が、可能性を無くします。

 私は、「及ばない、叶わないと思っても諦めない」心が好きです。そして、人を恐れ人に媚びる人は、自分の人生に覚悟が出来ていないだけだと思っています。

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