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文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【143】

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 今日の文字は『政治せいじ』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百四十二段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 政治

 

『【特集】五輪新競技、空手・形の「殺意」 武道の究極とは』
(共同通信社 2018/12/10 16:30)

 「—–前略—–
空手をよく知っている人以外にとっては、分かりにくさもつきまとう。そもそも、空手における形とは何なのか。形の修練は、格闘技としての実戦の強さにつながるのだろうか。
—–中略—–
 ただ、初めて見る者でも分かる美しさが故に湧く疑問もある。「この人は実戦も強いのだろうか」。
—–中略—–
 このぶしつけな質問を、喜友名の師匠の佐久本嗣男・劉衛流龍鳳会会長(70)にぶつけた。会長は「ハハッ」と笑ってから「空手の形には『殺意』があるんですよ」と答えた。
—–中略—–
 五輪で実施される空手競技には、形と共に組手がある。こちらは相手と対峙し技を出し合うため、一般的な意味ではより実戦的だ。ただし、攻撃部位は上段(主に顔面)と中段(主に腹部)のみ。空手に限らずスポーツとして行われる全ての格闘技では、急所攻撃はもちろん、攻撃部位や方法にさまざまな禁止事項を加えることで安全を確保する。
—–中略—–
 佐久本会長は「殺し方にも品の良しあしがあるでしょう。倒れた相手を何回も踏みつけるのか、バチンと一発で極(き)め『何かあったんですか』という顔をしているのか、ですよ」と続けた。
—–中略—–
 「空手は、必要最小限の動きをもって行うべしが鉄則」と佐久本会長。いかにもテレビ受けするような大きなモーションのパンチやキックとは本来、無縁だ。「小さな動きで強く当てる。そのために巻きわらを突いて拳を鍛えたりして、全身を武器化するのです」と語った。
—–中略—–
 全日本空手道連盟の並木知徳相談役(74)は「空手が五輪入りする際、勝敗が分かりやすい組手だけでという案もあった。しかし、空手が空手として継承されてきたのは形があってこそ、ということで種目に入った」と明かす。

 今も剛柔流の形の修練を続ける並木相談役は「自分を守り、相手を倒してしまうという点では、組手より形の方が理にかなっていると言える。一つ一つの技が何を意味しているのかを理解すれば、観戦もより楽しくなるでしょう」と話した。(共同通信=松村圭)」

 この記事は、異論反論よりも、現在公益財団法人全日本空手道連盟では、この二人が答えている方向で、「型」あるいは「形」を捉えていると言う事が分かりました。

 ただ、競技として成り立つためには、観客が見て判る必要があると思っています。

 並木さんが「空手が五輪入りする際、勝敗が分かりやすい組手だけでという案もあった。」と言われていますが、その通りで、組手にしても、判定に関しては工夫する余地があるように思います。

 今回、他のスポーツのようにビデオ判定を取り入れたのは、観客にとって分かり易いと思いました。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百四十二段 〔原文〕

 心なしと見ゆる者も、よき一言はいふ者なり。ある荒夷の恐ろしげなるが、かたへにあひて、「御子はおはすや」と問ひしに、「一人も持ち侍らず」と答へしかば、「さては、物のあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらむと、いと恐ろし。子故にこそ、萬の哀れは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛の道ならでは、かゝるものの心に慈悲ありなむや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ。

 世をすてたる人のよろづにするすみなるが、なべてほだし多かる人の、よろづに諂ひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻事ひがことなり。その人の心になりて思へば、まことに、悲しからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盜みをもしつべき事なり。されば、盜人をいましめ、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の飢ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恆の産なき時は、恆の心なし。人窮りて盜みす。世治らずして、凍餒とうだいの苦しみあらば、とがのもの絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはんこと、不便のわざなり。

 さて、いかゞして人を惠むべきとならば、上の奢り費すところを止め、民を撫で、農を勸めば、下に利あらむこと疑ひあるべからず。衣食世の常なる上に、ひがごとせむ人をぞ、まことの盜人とはいふべき。

 

 
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『現代文』

『無分別だと思える者も、良い事を言う時がある。ある荒々しい関東の人で怖そうな人が、そばに居る人に「子供はいますか」と聞いたら「一人もいない」と答えた。「であれば、ものの情けは知らないと思われる。薄情な人間に思えとても恐ろしい。子がいるから色々な情を知る事ができる」と言ったのは、もっともである。恩愛の道でなければ、無骨な者に慈悲の心を宿らせる事は、きっとないだろう。親孝行の気持ちが無い者でも、子を持ってこそ親の愛情を身に沁みて知る。

世捨て人が全て独り身だからと言って、おしなべて束縛するものが多い、色々な事に追随し、欲深いのを、無下に見下すのは間違いである。その人の気持ちになれば、本当に愛する親、妻子のために恥を忍んで盗みにまで手を染めるだろう。

であれば、盗人を捕えて間違いを罰するだけではなく、世の中が飢えず、貧しくないような世の行いをしたい。人は、一定の財産がないときは、落ち着いた心を保てないものである。人は極限になると盗みをする。世の中が治まらないと、飢えたり寒さに苦しみ罪人が尽きる事がない。人を苦しめ、法を犯させ、罰すると言うのは、気の毒な事である。

では、どのように人に情をかけるべきかと言うと、上に立つ者の贅沢三昧を止めさせ、民を慈しみ農業を勧めれば、下の者に利益があるに違いない。衣食が足りているのに、間違いをしようとする人を、本当の盗人というべきである。』

 

 

『政治』

 「お節御尤せつごもっも」と言うと、ちょっと批判的に聞こえてしまいますが、なかなか現実は難しいと思います。

 私が思うには、政治を行おうとする人は、上昇志向の強い人がなると思います。天下を取って国を治めるとか、統一しようとするには、常人には考えられないような、強い意志が必要になると思います。

 そして一般的には庶民の事より自分が大切と思う人に、権力志向が強い事も多いと思っています。

 鎌倉時代の末期と言うのは、国の政治が安定していなかったので、当然庶民の暮らしは豊かでは無かったと推測します。 

 さて、この文章いささか私には難解なので、少し現代文をまとめる事にしました。

「無骨な人で子供のいない人は、親子の情を知らない。この事を兼好法師は、もっともであると同意している。

 また、遁世している人は、独り身なので、家族の情が分からない。事情が呑み込めていないのだから、口を挟むべきではない。犯罪と言えども、家族の為に恥を忍んで盗みを働く場合もある。

 そんな家族を思って盗みをするのだから、ただ捕まえて罰するだけではなく、生活を安定させるような政治をするべきだと思う。

 では、どのようにすれば良いかと言うと、まず上の人が贅沢を止め、民に農業を薦め、生活を安定させるようにする事が大切だと思う。」

 一見筋が通っているように見えますが、無骨な人に子供がいない事と、遁世している人が独り身である事を、同列に並べるべきか、ここに疑問が湧きます。

 それは、無骨な人が、恩愛の情を持つためには、子供を持つのが良い。そうすると慈悲の心が宿ると言う事と、遁世している人が、独り身だからと言って、慈悲がないかと言うと、そんな事を勝手に決められたら、出家して遁世している人は、何の修行をしているのか分からなくなります。

 まして、独り身だから家族の情がないと言うのにも、勝手な決めつけだと思います。

 独り身であろうと、子供のいない家庭であろうと、その人達は、必ず親から生まれ、親に育てられた歴史があります。であれば、その間に親子の情は、自然と身に付いていると思います。

 もちろん、人間ですから例外もあり、情の無い人がいます。しかし、別に独り身であるとか、子供がいない事とは無関係だと思っています。そして、無骨な人が子供を持って恩愛の情が生まれるとは限りません。

 現代では、そんな人が子供をもって、虐待したり、捨てたりと、まるで鬼畜と思うような親もいるのです。

 反って、そんな独り身や、子供のいない人ほど情が深く、介護をしたり、親と生活を共にしている姿を見ます。

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