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文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【228】

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 今日の文字は『最初さいしょ』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二百二十七段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 最初

 

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☆『「ながら運転」罰則強化へ 道交法改正案閣議決定』
( FNN.jpプライムオンライン 2019/03/09 07:24)

「車の運転中にスマートフォンなどを使用する「ながら運転」の罰則強化を盛り込んだ道路交通法の改正案が閣議決定された。

運転中、スマホや携帯電話を手に持って通話するなどの違反行為は、現在は「5万円以下の罰金」だが、「6カ月以下の懲役、または10万円以下の罰金」に引き上げる。

また、こうした行為で事故を起こすなど、危険を生じさせた場合には、「3カ月以下の懲役、または5万円以下の罰金」から「1年以下の懲役、または30万円以下の罰金」に引き上げる。

携帯電話の使用などが原因の交通事故は、2018年1年間で2,790件にのぼるなど、10年間で倍以上に増えている。」

 随分前になりますが、たこ焼きを食べながら、携帯を肩と頬の間に挟み、その間に傘を入れてさしている人を見ました。自転車ですが、その時も、器用だと思いながらも、事故に遭わなければ、と思ったものです。

 スマホが出来る前にも、すべての人とは言いませんが、大半の人は自動車を運転しながら、携帯電話で通話しています。なんの罪悪感もなくです。

 まだ会社で仕事をしている時ですが、社員に注意した事がありました。注意された人は、なぜ注意されているか、判らないような顔をしていました。

 自動車、自転車であれ、オートバイであっても、少なくとも歩行者と比べると、武器を操っているのと同じと言う感覚にはならないのでしょう。

 人は、自分が武装していると気が付かないのであれば、罰則を重くするのは、適切な方法なのでしょう。

 私が思うのは、飲酒して運転する人の感覚も同じだと思っています。

 しかし、近い未来には、飲酒も携帯も自由な、自動車が開発されるのではないでしょうか。もしかしたら、運転免許証も必要なくなるかも知れません。早くそうなって、交通事故で人が怪我をしたり、命を亡くすことが無くなれば良いのですが。そういう車が出来れば、当然あおり運転も出来なくなると思います。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二百二十七段 〔原文〕

 六時禮讃は、法然上人の弟子、安樂といひける僧、經文を集めて作りて勤めにしけり。その後太秦の善觀房といふ僧、節博士ふしはかせを定めて、聲明になせり。「一念の念佛」の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讚も、同じく善觀房はじめたるなり。

 
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『現代文』

『六時礼賛は、法然上人の弟子で安楽といった僧が、経文の文句を集めて作って、勤行にした。その後、太秦の善観房という僧が文章の傍らにつけて節の高低・長短を示す符号を定め、声明にした。「一念の念仏」の最初である。後嵯峨院の時代より始まった。法事讃も、同じ善觀房が始めたのである。』

 

 

『最初』

 俄かには信じがたい内容です。まず、六時礼賛と言う事を始めたのは、ここに書かれている安楽ではないと思います。

 唐の浄土教の大成者である、善導が作ったものと思われます。

 六時礼賛と言うのは、「仏語。一昼夜の六時に仏を礼拝・賛嘆する勤行(ごんぎょう)。また、そのときに唱える文。善導の「往生礼讃」を用いる。」(出典:デジタル大辞泉 小学館.)

 また、六時礼賛は、《往生礼讃偈》《往生礼讃》《礼讃》とも称し、と世界大百科事典 第2版[株式会社平凡社]にも記載があります。

 次に記載のある法事賛も、「中国、唐の浄土教僧、善導の著。2巻。「浄土法事讃」ともいう。『阿弥陀経』と讃文とを交互に掲げて、懺悔供養などの法式を明らかにしたもの。」(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)とありますから、この出典を信じれば、これも間違いだと思います。

 まず、この太秦の善観房と言う人が私にはよく解りません。

 しかし、現在でもお経を節をつけて読む場合をよく見かけます。私は母が亡くなった時に、お経を読み始めたのですが、その時に家が真言宗と言う事なので、高野山真言宗金剛院住職、山田一眞と言う人の読経が入ったCDを購入して参考にしました。

 この場合は、まったく節を付けずに雨だれが落ちるように、一定の速度で、音程も一定にして読むように心がけています。

 お経に節をつけるのも、普及の為だったのでしょう。地域、宗派によって様々な節があるようです。

 太秦の善観房という僧が「南無阿弥陀仏」に節の表現を記したのが最初かも知れませんが、元から節があって、それを伝える方法として表したのかもしれません。または、善観房が最初に節をつけて「南無阿弥陀仏」を唱えたのか、これもまたこの文章からは読み取れません。

 ただ、六時礼賛・声明・法事賛の三つの記述の内、二つに疑義があり、もう一つを信じるのも勇気のいる事だと思います。しかも、当の太秦の善観房の存在も私には分かりませんでした。

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