心
『礼と節』....<7/12>
▲前のページへ... ...HOME...
礼と節は、なにも日本だけに限られたことではありません。フランスの哲学者アランの著作を翻訳したものにも礼儀と節度について随分ふれています。

「幸福論」には、
・礼儀を忘れるということを、わたしは人体の自分自身に対する暴力行為である、と考える。
・感情というものは真心のこもったものであればあるほど、貴重なものであればあるほど、礼儀を必要とする
・礼儀の作法に通じることなどどうでもよいのだ。また、たとえ作法通りに振舞うとしても、それだけではまだ礼儀の入口に立ったにすぎない。必要なのは、動きが正確でのびのびしており、固くなったりふるえたりしないことだ。ほんのちょっとした身ぶるいでも相手にはすぐわかるものだから、第一、相手を落ち着かせない礼儀などあるはずもない。
・乱暴や興奮を感じさせるものはすべて無作法だ。見ぶりだけでも十分だし、気配だけでも十分無作法に値する。
・わざとらしいものはすべて礼儀のなかに入らないように思われる。 <中略> 礼儀ということばがふさわしいのは、何気なくなされる行動、表現するつもりのないものを表現する行動に限るのである。
・軽はずみな人、たとえば思いついたことをなんでも口にだす人、最初の感情におぼれる人、自分の経験したことがよく分かりもしないうちから、驚き、嫌悪、よろこびなどを慎みもなく顔に出す人は、いずれも無作法な人間である。

「人間論」では、
・礼儀がおざなりに堕(だ)するのは、節度を欠くからにほかならない。

「神々」では、
・弓や矢にはるかに先立って、礼節というものが手段であり、道具なのである。

▲前のページへ..... ▼次のページへ...