『礼と節』....<8/12>
ところが、所変われば品変わるといいますか、その心は同じであっても、表現の方法は、さまざまです。
私が、以前所属していた道場では、もちろん今もその教えは継承していますが、胴衣(道着)に帯を締めるときには、正座します。急いでいるときでも、片足の膝をつくようにして結びます。
まだ、礼式には色々あることなど想像もしていないころですし、自分のところが一番だと思っていましたから、試合場などで他の流派の人などが立ったまま帯を締めているのを見ると、なんと行儀が悪いと批判の目で見ていたこともありました。
同じようなことで、道場に入るときには、靴下を脱いで入らなければならない規則がありました。このことを身に付けるのに、とても今では許されることではない方法で覚えさされました。
もちろん、はじめは、やさしく教えてもらえます。ところが、こちらが新米かどうかは、沢山いたので分かりません。先輩によっては、靴下を脱がないことは、神聖な道場に土足であがることに等しいですから、注意を飛び越えて、本当に蹴りが飛んできます。私も二度ばかりこの体験をしました。
これにしても、他の道場の人たちには、何のこと? だと思います。
一事が万事、この調子ですから。自分のやっていることは、正しいと思い込んでいるわけですから、他の人たちの行動に腹が立って仕方がありません。
失礼な。無礼者。という訳です。
礼節を考えるときに、どうしても上に対してへつらっているように他から誤解されることがあります。かの、世界の三大偉人とまでいわれた、孔子でさえ、礼節を説くとき、これでもへつらっているといえますか ?と、他の人から見たらへつらっている(ゴマすりだ)と見られることに反論しています。