心
『礼と節』....<9/12>
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人間は、生きるためにあるいは、社会生活を営むために、競争をよぎなくされます。すべての人が礼節を重んじていれば、そんな社会ではないと思いますが、現実は、そうではありません。
特に、先ほど紹介しましたみちのぶこうき氏ではないですが、『断片化された知識量で、自らの主張をしいられる戦後教育の犠牲者』である我々は、平等という名のもとに、人と対等でなければならないと、頑張ります。それが、対等ならまだしも、気がつかないうちに、防衛本能が、先手必勝とばかり攻撃に転じます。 人は対等でありたいものだということは、理解できます。しかし、往々にして、言葉の上でも、態度でも横柄になりがちです。人を蔑(さげす)みたいのでしょうか、それとも、自分を蔑まれないように防衛しているのでしょうか。まったく根拠のない自信とプライドは、裸の王様とも見え、滑稽でもあります。また、世の差別の原点とも言えるのではないでしょうか。

残念ながら虚飾と虚栄に満ちた社会では、こんな虚勢が幅をきかせていることも事実です。
ですから、すなおに、「はい」といえません。何か、卑屈にでもなっているとでも思うのでしょうか。
煩わしそうな、返事しか返ってきません。単に素直に返事をすればいいのに、そんな返事にも自己を主張しているように見受けられます。
「えぇー」とか「はぁーい」とか、ほとんど拒否反応みたいにです。もっといきすぎますと、「なんや」、「えっ」ときつくなります。声の調子でも、知らず知らずのうちに、自分自身の品格を落しめています。相手と対等であろうと、思えば思うほど、相手に勝とう勝とうと思うほど、自らの品格が下がっていきます。このことに気づかないうちは、礼と節は身につきません。

なぜ、空手道と礼と節なのか。空手は、型の稽古をもって修行とします。年代によっては、組み手も良い練習になりますが、やはり、型に勝るものはないと考えています。

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