心
『二つの心』』....<Ⅲ>............................【髓心 : 8 / 20 】
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ところが、近年注目の的であるサッカーなどを見ていますと、審判の目をくぐり、あるいは審判の目を紛らわし、勝つための戦術といわんばかりの光景を目にすることが大変多くなってきています。もちろん、東京オリンピックの時代から、審判の必要以上の自国の贔屓など、あるいはドーピングなどの問題を目の当たりにしてきました。これが、国際ルールなのでしょうか。
若い人に、このような状況について意見を求めますと、「いいんじゃないんですか」「当然ですよ」「そうしなければ、勝てない」「勝たなければ意味がない」「スポーツマンシップ? 奇麗事ですよ」「判らなければいいんですよ」と、平然と答える。この現象が今の世の中そのものだと思えてきます。少年の凶悪な犯罪は、後を絶ちません。うまく、世渡りすることを常識と考える一見エリートに、将来を委ねてしまって良いのでしょうか。国会議員を筆頭に、官僚・公務員(警察官・教師を含む)・大企業のテイタラク振りが現実の社会です。
戦後10年か15年たつかたたないうちに、子供に対しての人権を口にするようになりました。子供にとっては、理不尽な思いが幾分軽くなったように思います。それから、20年くらいの間は、思想であるとか、自己主張といわれてもまだ国民が慣れていないこともあり、また、まだまだ明治気質というか、このことを良いこととは思わない人たちが多くいたこともあり、表面にはでてこなかったと思います。
バブルの崩壊とともに、将来の展望も、また正しいと思える尺度も一変し、噴出したように社会不適合人間の存在があらわになってきたように感じます。歯止めがなくなったというか。ここ10年くらいの新聞紙上を賑わした宗教・家族・少年・議員・教師などの犯罪に何か共通点が見出せるのではないかと思っています。今こそ、社会を構成する人としての基本と原理原則について考える時ではないでしょうか。
「我心」は、教育されるべきであると思います。社会を構成する人としての基本と原理原則に基づいた教育が、今こそ必要であると確信しています。「我心」は、「髓心」とつながり、人としての叡智を出現させる、すべてを生み出す「心」です。
「心」が社会的動物であることを忘れたとき、そこに現れるものは、破滅であり破壊であろうと危惧しています。

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