『心と体』』....<Ⅳ>............................【髓心 : 9 / 20 】
自己主張がいけないとは思いません。社会を構成する人としての基本と原理原則の上に立った自己主張が必要であると考えています。修行には仕方があり、自己主張も必要な時期があります。このことは、『道程』の項で、修行の段階として後述します。
目は心の窓といいますが、心と体には密接なつながりがあります。そして、心は体をともなって、人としての行動を起こします。頭の中で考えているうちは、善行ともならないし、犯罪ともなりません。しかし、ひとたび、それが言葉となり、行動となったとき、他者とのかかわりとなります。いわゆる社会的な動物としての営みがあります。自己主張もひとつの表現であり、心の発露です。
とりわけ、修行の浅い時期においての自己主張は、成長の妨げになることがあります。基本と原理原則に基づかない動作を臨機応変という人がいますが、これはあやまりです。基本と原理原則に基づくとは、基本と原理原則に固執することではありません。基本と原理原則からこそ自由闊達な行いが見えてきます。基本も原理原則も無視した行いは、無謀であり、やけっぱちとしかいいようがありません。蛮勇とでもいうのでしょうか。
にもかかわらず、個性をのばせ、個性を大切に、自由な発想を・・・・・。個性は、伸ばさなくても、大切にしなくても、縛り付けても、開花するものです。その人そのもの特有の性質ですから。ただ、阻害要因はとりのぞく必要があると思っています。いつかは開花するものでも、限られた人生の中で開花させようとしたら。
この阻害要因、自らの心と体が誘引となっていることに気がつきます。特に、先の項にも述べましたように戦後の教育がその大きな要因となっているのではないかと考えています。
生まれたばかりのときは、自己主張しないと死んでしまいます。おなかが空けば泣き、オムツが汚れれば泣き、泣くことで自己主張を精一杯しています。保護されないと生きていけない時期は、生存の手段として自己主張します。ところが、この習慣が大きくなるまでつづくと、生存以外の自己主張もするようになります。人は学習しながら成長しますから、概ね大人とよばれるようになるまでに、自己主張の通らない度合いというか、むなしさを乗り越えてくるはずだったのでしょう。思うようにならないのが人生と。