心
『心と体』』....<Ⅳ>............................【髓心 : 10 / 20 】
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ところが、ようやく、折り合いがつきそうなときに、「自己主張が足りない」「堂々と自分の意見を言いなさい」時には「自分の考えたとおりに遣り通しなさい」などと追い討ちがかかります。
では、自己主張は通るのかというと、そうではありません。極端に反論することも、徹底的な議論もここではされません。なぜなら、そういう主張もあり、そういう価値観もありと認め合うことが、社会人として、あるいは大人としての振る舞いと、暗黙の了解をえることで人との摩擦をさけています。半疑問などと、訳の解らない言葉が横行するようになりました。摩擦をさけることは、社会人として間違ってはいないのですが、発端が、身勝手な想いこみなどの「自己主張」であれば、当然摩擦が生じるはずなのです。にもかかわらず、自己の主張が通ったような、通らないような、釈然としない気持ちだけが残るようになります。これは、ストレスを招く格好の条件です。
たとえば、親切にしても、相手を思いやる心がなければ、「小さな親切、大きなおせっかい」になります。まだ、おせっかいならいいのですが、大きな迷惑になることも間々あります。私は、勝手に「親切」と「思いやり」を分けて考えています。それこそ自分勝手に。ですから、あくまでも便宜上。
「親切」は、自らの発想で考え、こうすれば喜ぶだろうと思い込み、親切が自分のやりたいことになっている場合。これは、自己満足ともとれることだと思います。しかし、自分は「人のため」と思っていますから、相手が喜ばなければ、不満が残ります。あげくは、こんなにしてやっているのに。と、相手を誹謗するようになりかねません。
「思いやり」は、社会的動物としての役割として、あるいは自ら責任を感じて行う行為であり、決して見返りを考えることもありません。逆に、自ら何かをできる状態に、感謝する心も湧いてきます。「思いやり」は、一方通行ではありませんから、痛みを伴うこともあります。それでも、自己の責任においてする行為ですから、やりがいがあります。

「自己主張」が過ぎると、自己顕示欲や勝負に対し異常な執着をみせます。

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