心
『心と体』』....<Ⅳ>............................【髓心 : 11 / 20 】
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謹慎謙譲 空手道最大の美徳

前出の船越義珍翁が、残された言葉の一つです。この言葉には、社会的動物として正しい生き方が示されていると思います。
「慎む」「譲る」といったところから、空手道の修行が始まらなければなりません。そこに、相手に対する礼儀や節度が必須になっていることも、理解できると思います。
ところが、我々戦後の教育を受けた者には、「自己主張」が阻害要因となり、「慎む」「譲る」といった発想が引っ込んでしまいます。すぐに、対等であることを主張したくなります。教える側も、教わる側も対等であることが、人格の尊重であると誤解しています。
教わる側には、教わる姿勢と態度が必要です。これも、義務教育が歴史で風化し、当初の心を忘れてしまった結果によるものでしょうか。生きるための選択肢を広げるために、国民に豊かな生活ができるようにと、義務教育が設置されたのではなかったのでしょうか。ですから、教わる側には、教えてもらえるという感謝の心があり、教えてくれる人に対する尊敬の念があったはずです。戦後しばらくは、先生と生徒の関係は、このような関係が自明であったように思います。
たとえ、お金を払ってでも、知りたい、会得したい、身に付けたい。こんな気持ちが、ものの習得には大事なことなのです。昨今の教育はどうでしょう。一部であるのかも知れませんが、お金を払っているのだから、教えるのは当たり前。お金をもらっているから教えなければならない。こんな関係で教育が成り立つはずもありません。
教える側にもおおいに問題があります。教える側は、自らの使命を認識するとともに、育てることの喜びに感謝するべきだと思います。教えられる側に迎合することは、すでに教えることを放棄していることでもある。と言えるのではないでしょうか。もちろん、教える側には、先に述べたように「思いやり」の精神がなければなりません。常に自分が教える側にあって恥じない行動を伴わなければならないことは言うまでもありません。
教える側と教えられる側には、こういった相互の関係がなくてはなりません。

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