『心と体』』....<Ⅳ>............................【髓心 : 12 / 20 】
そこで、「瀉瓶」という関係の重要性を省みる必要があります。専門的に研究されている人から見ると「瀉瓶」の意味の違いがあるやも知れませんが、私は次のように「瀉瓶」を解釈しています。
教えられる側にも、当然今まで生きてきた考えがあり、遣り方もあるとは思いますが、ここで、自己主張することが、教えられることに対する阻害要因となります。例えば、空のコップに水を注ぐことは、だれにでも容易にできるでしょう。しかし、満たされたコップに水を注ぐことは至難の業だということは、すぐに理解できると思います。ところが、なかなか、この空のコップを出すことができません。自己顕示・自己主張がトラウマになっているのか、プライドが頭をもたげます。
【瀉瓶・写瓶】(瓶の水を他の瓶に移し入れるのにたとえる) 仏法の奥義を遺漏なく師から弟子に皆伝すること。写瓶相承(しゃびょうそうじよう)。(広辞苑)
謹慎謙譲、すなわち謙虚な心のあり方でなければならないもう一つの訳があります。それは、私たちが思ったり考えたりすることは、すべて、主観に他ならないからです。どれだけ、頭が良くっても、良い人であっても、情報の入力には、自らの主観を介在せずして記憶に留まることはありえません。もう少し卑近な例をあげて考えて見ましょう。
あなたが、教える立場であった場合を想像してみてください。
道場に入会者がきました。
『入会したいんやけど、どないしたらええねん』
---この入会申込書をよく読んで、必要事項を記入してください。-
『必要事項てなんやねん』
---入会申込書の記入欄を見せながら、ここに名前・ここに住所など説明をする-
と、言うふうに会話が進むでしょうか。