心
『心の開放』』....<Ⅴ>............................【髓心 : 17 / 20 】
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それでも、「無心の前の一心」朝鍛(ちょうたん)夕練(せきれん)(朝に鍛え夕べに練る)一心不乱に実践を通じて型を破り創意工夫を重ねなければなりません。

離とは、破の段階を通じて得た独自の心境により、自立していくことです。自立ということは、自律でもあり、他からの抑制ではなく、自らの生き方に責任をもちひとり立ちしていくことです。「守」の時も、「破」の時も、常に目標があり、叱咤激励してもらえる先生や先輩の庇護のもとにありました。しかし、「離」の段階では、頼る者は自分しかありません。

釈尊が、
「おのれこそおのれのよるべ、おのれをおきて誰によるべぞ、よくととのえしおのれにこそ、まことえがたきよるべをぞ獲ん」
自灯明(自らをともしびとせよ)

ということばを残されました。
本当に頼らなければならないのは、本来の自分(髓心)であり、頼りがいのある自分になるために、自らを良く整えなければならない。といった意味に解釈しています。
何かにつけ、自立が難しい時代になってきていると思います。自己の権利を主張するあまり、何かをしてもらおうという気持ちが先にたって、自らが何ができるのかを問わなくなってきています。自ら何か世のために、あるいは、人のためにできる事が幸せの原点ではないでしょうか。何か人のためにしようと思っているところに、何かをしてもらえれば、素直に感謝の心も生まれます。何かをしてもらおうと思っていて、やってもらっても、当然としか思えません。そこには、感謝のこころも生まれませんし、礼儀と節度も生まれてはこないような気がします。
修行とは、基本と原理原則を徹底的に自分のものにした上で、初めて自己を主体とする発想で稽古し、その結果、自由にして闊達な心境を得ることにあります。

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