『心との出会い』』....<Ⅵ>............................【髓心 : 19 / 20 】
心が開放され、自立した「我心」は、何ものにもとらわれない自由な心、すなわち「髓心」のあるべき姿を表します。
土の心、草木の心、自然の心、動物の心、隣人の心、生きとし生きるものの心とのつながりを感じる個性の存在を実感します。
「よくととのえしおのれにこそ、まことえがたきよるべをぞ獲ん」
えがたきよるべこそ個性として尊重すべきではないのでしょうか。
心がどこに居つくこともせず、一心から無心となったとき、思わぬ体験をすることがあります。
稽古の時には、組み手の相手との間合いが、遠く感じたり、相手の攻撃のスピードがスローモーションになったり、気がつかないうちに攻撃を捌いていたり、相手と自分との一体感を感じたり、自分の姿を俯瞰できたり。あるいは、非常に短い時間(まばたきするほどの時間)に自らの動きを克明に感じ、体の軸になる部分によってつながりをみせる筋肉・腱・骨などの感覚が非常にするどくなり、細部にいたって自由に自らの意思で統治することが可能となります。
また、生活の中でも、仕事をする上でも、「髓心」が自らの能力を発揮し、思わぬ成果を生んでくれることでしょう。
特に、人間関係や生活環境に対する「我心」の働きは、人生そのものを狂わします。
「髓心」を求めて型を繰り返しやっていますと、「そうか!」「わかった!」という小さな悟りがあります。また、組手においても同様なひらめきが時としておこります。
しかし、これは悟りではなく悟るための序章です、一心から無心への切符です。型においても組手においても、「我心」は、即、心の乱れとなって動きを妨げます。
「道場のみの空手と思うな」