【 連ん本の道思ひ与る古ヽろ奈し】、下の変体仮名が使われていると思いますので、「れんほの道思いよるこころなし」と読み、漢字を当てはめて、『恋慕の道思いよる心なし』とする事によって、少しイメージできると思います。
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しかし、『独行道』で『恋慕の道』と60歳を過ぎて死を前にしても、記述しているのですから、当然好きな人がいて、思いが叶わなかったのか、それとも、兵法の道をとったかは別にして、ずっと引き摺って来たのだと思います。
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私達の思いは、因果関係で終結します。すなわち、原因があり経過があり、結果で終結します。しかし、原因と経過で結果が無ければ、経過がいつまでも続きます。
例えば恋愛関係で言えば、人を好きになり、その相手と結婚しても、別れる事になっても、結果があります。
しかし、途中で相手が居なくなったり、亡くなってしまったり、自分では理解できない事で、結果が突然くると、その結果に納得出来ずに、引き摺る事になります。
この事が、恋慕の道と言う事ではないかと、思います。恋と言う字は、変な心と言う人がいますが、尋常ではない心になる事は、皆が体験している事ではないでしょうか。最近の恋愛事情は分かりませんが。
その尋常ではない心に終わりがなく、いつまでも続く事は、精神衛生上決して良い事ではありません。しかし、引き摺っている事で、相手に対しての忠義立てと考える場合もあります。これも、身勝手な考え方だと思います。思い込みと言うのは、何かにつけて独りよがりなものです。どこかで、終結しなければなりません。
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この、どこかで終結しなければならない思いを、歌に、あるいは小説にする事によって、文化や芸術を作ってきました。日本には、数々の歌、物語として残っています。
竹取物語、羽衣物語、松浦佐用姫物語などは、悲恋物語として、源氏物語や伊勢物語は恋物語として、今も伝えられています。また、百人一首などには、恋愛を題材にしたものが多数収録されています。
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人間とは悲しいもので、こうした文化や芸術に、その思いを発揮している内は良いのですが、行き過ぎると、今はやりのストーカーになってしまいます。本当に病気の人もいますが、この人達は、刑に服するより、入院されせるべきかも知れません。
近松門左衛門の残した心中を題材にした物語も、行き過ぎた恋の終着点ではなかったかと、思います。もっと、残虐な結果を招いている史実もあります。
しかし、最近は、色々な事情で、若者の間では、恋愛を経験しない人が増えていると聞きます。理由は、束縛観やメリットが無い、あるいは、面倒だからと言った、自己中心的な考えにあります。まあ、恋愛自体が、自己中心的でなければ、出来ないと思いますので、恋愛が持つ動物的な感情が、知識で考える自己中を包括するまでは、恋愛はできないのでしょう。
武蔵が言うように、『恋慕の道思いよる心なし』と突っぱねる事も、病気にならない方法だと思います。
ただし、草津節の一節に、
「お医者様でも 草津の湯でも ア ドッコイショ 惚(ほ)れた病(やまい)は コーリャ 治(なお)りゃせぬヨ チョイナ チョイナ」
と言うのがありますから、取り扱いには、くれぐれも、厳重注意!
『過ぎたるは猶及ばざるが如し』と何度か述べていますが、『いい加減』を見つけて、バランスを取るように心がける事の方が、修行僧のように寄せ付けない事より、楽しい人生を送れるように思います。
【参考文献】
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
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