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「五輪書」から学ぶ Part-69
【火之巻】底をぬくと云事

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 【五輪書から】何を学ぶか?  

 今回のテーマ「底をぬく」と言うのは、「底抜け」に続いて、「のお人好し」「のアホ」とか、「に明るい」など、許容範囲を超える人や出来事に使われる事があります。
 確かに「底が抜けたバケツ」は使い物にならないですね。船の底が抜けると沈みますし、立っている床が抜けると危険極まりない事です。

 「五輪書」には、技術的な事から、心理状態など心の問題に至るまで、多岐に渡っていますが、特に相手の心理状態をコントロールしようとする戦術や戦略は、勝負に命を懸ける人にとっては、見逃すことができない一つ一つのテーマであると思います。

 今回の「底をぬくと云事」で語られている事は、何か引っかかりますが、頷くより他に答えを見つけられないような、人間の性とも言える問題を感じています。

 これは、社会的構成をなす人類が、歴史を重ねるごとに、少しづつ改善されてきたようには、思います。刑法でも、死刑制度に対して、賛否があり、「市中引き回しの上、打ち首獄門」から随分刑罰も変わってきました。

 それでも、最近のニュースのような、極悪非道というか、鬼畜と言えるような事を目の当たりにしますと、「打ち首獄門」が妥当と、安易に考えてしまいます。

 「底をぬく」と言うのは、通常の範疇から踏み出す行為だと思います。色々な方向に踏み出すことがありますが、個人的には人の道に悖る事は避けたいと思います。武蔵も、「独行道」では、最初に「世々の道をそむくことなし」と言っています。

 武蔵が生きた時代では、今回のようなテーマは、「人の道に悖る」事では無かったのでしょうか。

 時代時代で、常識とされる事が、大きな流れで真逆に変化するのも歴史の悪戯(いたずら)かも知れません。
 明治維新、第二次世界大戦など、比較的近い過去においても、人は変化を余儀なくされました。

 近年正に歴史が変化するのではないかという、きな臭いニュースが後を絶ちません。出来れば、過去の体験を経験に昇華して、人間の智慧を発揮したいものです。

【火之巻】の構成

23. 底をぬくと云事
24. あらたになると云事
25. 鼠頭午首と云事
26. 将卒をしると云事
27. 束をはなすと云事
28. いはをの身と云事
29. 火之巻 後書
  
『原文』
23. 底をぬくと云事 (原文は、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.htmlを引用した)
底を抜と云ハ、敵と戦に、其道の利をもつて、上ハ勝と見ゆれども、心をたへさゞるによつて、上にてはまけ、下の心はまけぬ事有。其儀におゐては、我俄に替りたる心になつて、敵の心をたやし、底よりまくる心に敵のなる所、みる事専也。此底をぬく事、太刀にてもぬき、又、身にてもぬき、心にてもぬく所あり。一道にハ、わきまふべからず。底よりくづれたるハ、我心残すに及ばず。さなき時は、残(す)心也。残す心あれば、敵くづれがたき事也。大分小分の兵法にしても、底をぬく所、能々鍛練有べし。(1) 
【リンク】(1)は【註解】として、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」にリンクされています。

 『現代文として要約』

 23. 底をぬくと云事

 底を抜くと言うのは、戦いにおいて、その道の利によって勝と見えても、心が折れてしまわない限り、表面では負けていても、内心はまだ負けていない事がある。その時は、直ぐに気持ちを入れ替えて、敵を根絶やしにして、敵が心底負けた気持ちになった事を確認する事が肝心である。
 その底を抜く事は、太刀でも、又身体でも、心でも根絶(こんぜつ)する事である。この方法については、一つと思わない事、心の底から崩れた敵に対して気を配る必要はない。まだ根絶(こんぜつ)できない場合には、一掃する気持ちが必要である。根絶やしにしようとする気持ちが無いと、敵は崩れにくいものである。合戦、一対一の戦いの兵法でも、徹底的に粉砕する事が大切である。よく鍛錬する事。

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 『私見』

  勝負というものは、無慈悲であるという事だと思います。戦国時代においては、上杉謙信が敵対関係にあった、武田信玄に塩を送ったと伝えられた事以外聞いた事がありません。もちろん、永い戦国時代の間には、心温まる美談があったのかも知れません。

 しかし、織田信長の戦い方を見ると、敵対するものに対しては殲滅しています。これは、自らが脅威と思っている面と、他の者への戒告の意味もあると考えられます。

 戦争とは、人の心まで無くしてしまうのでしょう。いや、人の一面であるのかも知れません。

 勝という事を目的とするならば、絶対的な勝ちは、武蔵が言うように、相手を根底から打ち崩す事だと思います。でなければ、ヨーロッパでいまも続いている宗教戦争のように、もう宗教戦争かどうかも分からないまま、いつ終わるとも知れない戦いが続いて行くのだと思います。

 特に「天下布武」を旗印に邁進していった信長には、無慈悲な面があっても仕方がなかったのかも知れません。ただし、「天下布武」の意味は、「暴を禁じ、兵を治め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和せしめ、財を豊かにする」(〔左氏伝 宣公十二年〕武の七つの徳)(出典:大辞林 三省堂.)とありますから、暴力を容認する事では無かったのかも知れません。

 それでも、フロイトの言うように【法は暴力に支えられており、そして法の支配は時に破綻して暴力の支配にとってかわられるものだ】と、暴力が介在しないで「天下布武」は考えられなかったのでしょう。

 「完膚なきまでに叩きのめす」と普通に使いますが、意味を考えると「ぞっ」とするような言葉です。傷を負っていない所がない程、徹底的に傷つける事が人間には可能なんですね。

 人は愚かなものですが、同じ過ちを犯さない事ができるのも人間です。
 しかし、未だに核保有国であるとか、後処理ができない物質(核エネルギー)を、平気で扱うような人類の未来がどのようなものか、知る由もありません。

 武蔵の生きた時代には、考える事も出来なかった事が、今は可能な時代です。それでも、武蔵は、「底をぬく」というのでしょうか。

 私が、武術でも格闘術でもなく、武道を求道する意味は、そんな愚かな人間の性から「底を抜きたい」からに他なりません。

 【参考文献】 
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.

   【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html


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