「五輪書」から学ぶ Part-86
【空之巻】序文

 【五輪書から】何を学ぶか?  

 この「空之巻」で、「五輪書」も終わりになります。

 しかし、どうも、武蔵は「空之巻」を書き始め、この文章を書いて、命尽きたのではないでしょうか。そして、この文章も最後まで書き終えたのでしょうか。

 一応題名を「序」としましたが、「空之巻」には序とは書かれていません。ただ、序と思われる文章で終わっています。

 この文章の後に「空之巻」の本文が続くのでしょうが、こればかりは、武蔵が、この世に存在しないのですから、続きを読むことは出来ないでしょう。

 非常に残念ですが、【五輪書】は、未完と言っても良いと思います。

 ただ、既に地・水・火・風と読み進んできた中で、武道を志す人も、特に武道に興味を持たない人にも、学ぶべきことは十分あったのではないかと、思います。
 武術に興味のない人には、武蔵のあくまでも人を斬る事に徹した物言いに、違和感を感じる人もいたと、思います。

 極端ですが、人は、そんな残酷な面を、誰もが持ち合わせています。でなければ、文明も文化も進んだ現代社会に、相手を倒すスポーツが盛況する理由がありません。ゲームでも、将棋・囲碁でも、チェスでも相手を倒すことが目的です。

 飛躍しすぎかもしれませんが、同一線上に武器の開発があります。人類を滅ぼしかねない核兵器など、開発する必要がないと思います。

 そんな社会の中で、あくまでも、勝ちに拘り続けるのが良いのか、それとも、人はどこかで、足るを知って、バランスを取った方が良いのか、今は、個人の自由になってしまいました。

 普通に考えれば、自明の理と思いますが、人の持つ煩悩は、いつも自然の法則に抗います。なんだか、割り切れない気持ちになります。

【空之巻】

『原文』
序文 (原文は、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.htmlを引用した)
二刀一流の兵法の道、空の卷として書顯す事。(1)
空と云心ハ、物毎のなき所、しれざる事を、空と見たつる也。勿論、空ハなきなり。ある所をしりて、なき所をしる、是則、空なり。世の中におゐて、悪く見れバ、物をわきまへざる所を空と見る所、実の空にはあらず。皆まよふ心なり。此兵法の道におゐても、武士として 道をおこなふに、士の法をしらざる所、空にはあらずして、色々まよひありて、せんかたなき所を、空と云なれども、是、実の空にはあらざる也。武士ハ、兵法の道を慥に覚、其外、武藝を能勤、武士のをこなふ道、少もくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をミがき、觀見二つの眼をとぎ、少もくもりなく、まよひのくものはれたる所こそ、実の空と知べき也。実の道をしらざる間は、佛法によらず、世法によらず、おのれ/\ハ、慥成道とおもひ、能事とおもへども、心の直道よりして、世の大がねにあハせて見る時は、其身/\の心のひいき、其目/\のひずミによつて、実の道にハそむく物也。其心をしつて、直成所を本とし、実の心を道として、兵法を廣くおこなひ、たゞしくあきらかに、大き成所を思ひとつて、空を道とし、道を空とみる所也。(2)

  ( 空有善無惡
    智者有也
    理者有也
    道者有也
    心者空也 )(3)

 正保二年五月十二日
           新免武蔵玄信
                在判
       寺尾孫之丞殿 (4) 
【リンク】(1)(2)(3)(4)は【註解】として、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」にリンクされています。

 『現代文として要約』

 序文

 二刀一流の兵法の道を、空の巻として書き著す。
 空(くう)と言う気持ちは、何も無い、分からない事を、空(そら)に譬える。もちろん、空(くう)は無い事である。ある所を知って、無い所を知る、これが空(くう)である。
 世の中では、空(くう)を悪く捉えれば、物の分別のない事を空(からっぽ)と言うが、これは本当の空(くう)ではない。皆、考え違いである。
 この兵法の道でも、武士として、兵法の道を行う場合、武士としての立ち振る舞いを知らない事は、空(くう)ではない。色々迷い、他に方法が見つらない場合も空(くう)と言うが、これも本当の空(くう)ではない。
 武士は、兵法の道を確かに覚え、その他、武芸をよく勤め、武士の行う道、少しも分からない事はなく、心の迷いもなく、常にその道に精進し、心意二つの心を磨き、観見二つの目を研ぎ、少しも曇りなく、迷いの雲が晴れた状態こそ、本当の空(くう)と知るべきである。
 本当の道を会得できていない間は、仏法にしても、世の中の法にしても、自分が正しいと思い、良い事と思っても、心の真直ぐな道から、世の中の大きな尺度で見た時は、それぞれの人の心の贔屓や、判断する目の歪みによって、本当の道に背くものである。その意味を理解して、真直ぐな事を礎とし、本当の理論を知り、兵法を広く行い、正しく明らかに、大所高所から考え、空(くう)を道とし、道を空(くう)と見る所である。

  ( 空有善無惡
    智者有也
    理者有也
    道者有也
    心者空也 )

 正保二年五月十二日
           新免武蔵玄信
                在判
       寺尾孫之丞殿
 
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 『私見』

 『現代文として要約』では、「空」と言う漢字に、振り仮名を振ってみました。武蔵は、地・水・火・風・空と、仏教で言う五輪を使い、この五輪書を書いていますが、般若心経に言う「色即是空」の表す「空」を指しているのではない事は、直ぐに分かります。

 単純に、何もない事を知るには、何かある事を知らなければ分からない。物事が本当に明らかになった時に初めて「空」が分かる。いわゆる、仏教では、諦観と言われている事を、言いたいのだと思っています。
 平たく言えば、分からない、知らない、未熟は、空っぽで、本当の空ではなく、全て世の中の事を理解し、分かり、身に付いた時に初めて「空」が分かると言っています。

 最後に添えてある漢文については、播磨武蔵研究会の主張される通り、武蔵の手によるものとも思われず、また、内容に関しても、「空」についての考え方が違うように思いますので、読み解く事をしません。興味のある人は、播磨武蔵研究会(http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html)に詳しく掲載されていますので、参考にされてみては如何でしょうか。

 武蔵の凄い所は、『ある所をしりて、なき所をしる、是則、空なり』と言う、理論展開です。これは、無い物を無いと証明する方法として、現在でも間接的に証明する方法が使われています。例えば、アリバイなどがその一例です。悪魔の証明と言われてしまうかも知れませんが、比喩的な言い回しなのであまり穿った見方はしない方が良いでしょう。

 『心の直道よりして、世の大がねにあハせて見る時』と原文にありますが、直道と言う言葉は、今までに何度も出てきました。概ね『煩わしい色々な思いを少し横において、世の中の尺度に照らし合わせてみる』というような事だと思います。これは、 髓心とは
のような、自分の核になる心、私が言う『髓心』によって、見るという事だと思っています。よく、色眼鏡で見ている、など、偏見に対しての批判的な言葉として言われています。
 また、自分に贔屓目に見ると言う事もありがちな話です。ハロー効果と言う、近々の事や印象の強かったことだけ考えてしまうのも、人間の性です。
 武蔵は、自分で正しいと思う事も、また主張する事も、客観的に見ると間違っている事もありますよ。と警鐘を鳴らしています。

 私は、武蔵の言う本当の「空」になるには、「無」と言う状態になる必要があると思っています。武蔵のように証明しようとは思いませんが、「体験を通じて経験とする」を信条としていますので、この体験・経験を色んな場面で活かすために、「無」と言う精神状態が必要だと思っています。

 人間は、通常の脳の使い方では、体験・経験をアイデアとして具現化する事が得意ではありません。習ったことを習ったように思い出すのに、通常の脳の働きは出来ているように思います。

 そこで、脳の働きを「無」の状態にしたとき、智慧が現れます。全くの主観ですが、この時、脳は、全開するのではないかと思っています。

 コンピュータのCPUが沢山あって、一緒に同時に処理をする分散処理システムの感じです。

 試して見てはどうでしょうか。 髓心とは
の中に詳しく、無心の前の一心について、私の考えを書いてあります。一読する事を、お勧めします。

 【参考文献】 
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.

   【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html