【五輪書から】何を学ぶか? |
今回も「鼠頭午首」と言う難解な言葉が出てきました。読書好きの人は、こんな言葉との出会いに喜びを感じるのかも知れません。私の場合は、ただ頭を抱えるだけです。
そういえば、先日道場の前の電線を鼠が走っていました。あんなに細い線の上を器用に両足で掴みながら、しかも、すばやく動けんるんですね。
私が上を向いて、「ネズミ!?」と言ったら、礒田師範が、ついにボケたか?と思ったらしいです。そんな礒田師範ですが、もう40年以上も、同じ道場に通っているんですね。
確かに、馬の首を実際に見ると、でかいですね。と言っても、最近は馬を近くで見る事も無くなりました。昔は、家の裏を馬力追い(荷馬車)が走っていました。また、神社では、白馬を近くで見る事ができました。競馬に行く人は今でも見る事が出来るでしょうが、残念ながら私の趣味にはありません。
「ねずみの頭と馬の首」何の事でしょうね。「私見」では、そんな事にスポットを当てて見たいと思います。
【火之巻】の構成
25. 鼠頭午首と云事
26. 将卒をしると云事
27. 束をはなすと云事
28. いはをの身と云事
29. 火之巻 後書
|
25. 鼠頭午首と云事
鼠頭午首(そうとうごしゆ)と言うのは、戦いの中で、お互いが細部に囚われて、もつれる時、常に鼠頭午首鼠頭午首と思って、双方が細かい所に気持ちがいっている時に、急に大きな気持ちに切り替える事が兵法の一つの手段である。
普通の時にも鼠頭午首と思う事が武士の心得である。合戦でも、一対一の戦いでも、その気持ちを離れないようにする。その事をよく研究して考えるべきである。
【広告にカムジャムという物を載せましたが、巻き藁を木にくくり付けるのに使っています。これはとても便利です】
『私見』
まず、「鼠頭午首」をどのように解釈してよいのか、考えてしまいます。漢字は、「ねずみの頭」と「馬の首」ですが、小さい物と大きい物を比較した比喩でしょう。その当時は普通に使われていたのかも知れません。「枝葉末節 」と言う四字熟語がありますが、この言葉を引用すると、「枝葉末節に拘って大局を見失う」という事でしょう。
枝葉末節が鼠頭、大局が午首、という事でだと理解することにします。「木を見て森を見ず」と言う諺どおりの状態から解放されるため、呪文のように、「鼠頭午首鼠頭午首」と言っています。
確かに、夢中になると些細な事だけが見えて、俯瞰する心の余裕がなくなります。
特に戦いの最中には、精神状態を平静に保つよう「不動智神妙録」で、何度となく示されていました。
これは、戦いの最中では、平静に保つ事が難しいから出た言葉です。そして、視野が狭くなるのも同様です。歳を取ると視野が狭くなるのとは、違い、高速で自動車を運転すると、視野が狭くなる事と似ています。
集中すればするほど、周りが見えなくなります。呪文のように「鼠頭午首鼠頭午首」と言っている意味が難しければ、自分に合う言葉に変えても良いでしょう。その言葉の意味より「鼠頭午首鼠頭午首」と言って、我に返り、俯瞰できる事の方が重要です。
空手の場合には、「型」と言う稽古方法があります。 空手道の「型」を考える Part-2で述べましたが、習得の順序の最後、6.に俯瞰と言う方法で稽古をするようにしています。
順序を追って、初めは枝葉末節に拘り抜きます。次にそこから抜け出し、俯瞰できるように稽古を重ねます。それほど、俯瞰と言うのは難しいのです。
よく、自分が二人いて、もう一人が頭の上後方にいて、眺めている光景が浮かぶことがあります。そして、そういう体験をしている人を何人も見たり聞いたりします。
私も、普段にはそんな光景をよく見ます。しかし、大事なのは、混乱したり、四苦八苦している時に、俯瞰できるかどうかが問題です。
常々から俯瞰できるようにするのが修行ですが、我を忘れて没頭する事もあると思います。仕事でも、子育てでも、諍いでも、普通に生活をしていても、人は集中すればするほど、自分を見失います。
それを、武蔵は「鼠頭午首鼠頭午首」と思いなさい。と言っています。
「客観客観」「俯瞰俯瞰」でも「冷静に冷静に」でも、自分に合った、一息つける言葉を作って、思い出してみたらどうでしょう。
(うちの猫は冷静に見つめてますね!)
【参考文献】
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html
|
|
|
|