「五輪書」から学ぶ Part-71
【火之巻】鼠頭午首と云事

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 【五輪書から】何を学ぶか?  

 今回も「鼠頭午首」と言う難解な言葉が出てきました。読書好きの人は、こんな言葉との出会いに喜びを感じるのかも知れません。私の場合は、ただ頭を抱えるだけです。

 まず、「鼠頭」と言えば「鰯の頭も信心から」と言う言葉が浮かんでくるのですが、「ちゃう、ちゃう」(大阪弁)と、突っ込まれそうですね。

 そういえば、先日道場の前の電線を鼠が走っていました。あんなに細い線の上を器用に両足で掴みながら、しかも、すばやく動けんるんですね。

 私が上を向いて、「ネズミ!?」と言ったら、礒田師範が、ついにボケたか?と思ったらしいです。そんな礒田師範ですが、もう40年以上も、同じ道場に通っているんですね。

 「午首」は、「うし?」「うま?」、上に出てないから午後の「午」、午の刻、十二支の「午」、すなわち「馬の首」ですね。

 確かに、馬の首を実際に見ると、でかいですね。と言っても、最近は馬を近くで見る事も無くなりました。昔は、家の裏を馬力追い(荷馬車)が走っていました。また、神社では、白馬を近くで見る事ができました。競馬に行く人は今でも見る事が出来るでしょうが、残念ながら私の趣味にはありません。

  「ねずみの頭と馬の首」何の事でしょうね。「私見」では、そんな事にスポットを当てて見たいと思います。

【火之巻】の構成

25. 鼠頭午首と云事
26. 将卒をしると云事
27. 束をはなすと云事
28. いはをの身と云事
29. 火之巻 後書
  
『原文』
25. 鼠頭午首と云事 (原文は、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.htmlを引用した)
鼠頭午首*と云ハ、敵と戦のうちに、たがひにこまかなる所を思ひ合て、もつるゝ心になる時、兵法の道を、常に鼠頭午首/\とおもひて、いかにもこまかなるうちに、俄に大きなる心にして、大、小に替る事、兵法一つの心だて也。平生、人の心も、そとふごしゆと思べき所、武士の肝心也。兵法、大分小分にしても、此心、はなるべからず。此事、能々吟味有べきもの也。(1) 
【リンク】(1)は【註解】として、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」にリンクされています。

 『現代文として要約』

 25. 鼠頭午首と云事

 鼠頭午首(そうとうごしゆ)と言うのは、戦いの中で、お互いが細部に囚われて、もつれる時、常に鼠頭午首鼠頭午首と思って、双方が細かい所に気持ちがいっている時に、急に大きな気持ちに切り替える事が兵法の一つの手段である。
 普通の時にも鼠頭午首と思う事が武士の心得である。合戦でも、一対一の戦いでも、その気持ちを離れないようにする。その事をよく研究して考えるべきである。

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 『私見』

 まず、「鼠頭午首」をどのように解釈してよいのか、考えてしまいます。漢字は、「ねずみの頭」と「馬の首」ですが、小さい物と大きい物を比較した比喩でしょう。その当時は普通に使われていたのかも知れません。「枝葉末節 」と言う四字熟語がありますが、この言葉を引用すると、「枝葉末節に拘って大局を見失う」という事でしょう。

 枝葉末節が鼠頭、大局が午首、という事でだと理解することにします。「木を見て森を見ず」と言う諺どおりの状態から解放されるため、呪文のように、「鼠頭午首鼠頭午首」と言っています。

 確かに、夢中になると些細な事だけが見えて、俯瞰する心の余裕がなくなります。
 特に戦いの最中には、精神状態を平静に保つよう「不動智神妙録」で、何度となく示されていました。

 これは、戦いの最中では、平静に保つ事が難しいから出た言葉です。そして、視野が狭くなるのも同様です。歳を取ると視野が狭くなるのとは、違い、高速で自動車を運転すると、視野が狭くなる事と似ています。

 集中すればするほど、周りが見えなくなります。呪文のように「鼠頭午首鼠頭午首」と言っている意味が難しければ、自分に合う言葉に変えても良いでしょう。その言葉の意味より「鼠頭午首鼠頭午首」と言って、我に返り、俯瞰できる事の方が重要です。

 空手の場合には、「型」と言う稽古方法があります。 空手道の「型」を考える Part-2で述べましたが、習得の順序の最後、6.に俯瞰と言う方法で稽古をするようにしています。
 順序を追って、初めは枝葉末節に拘り抜きます。次にそこから抜け出し、俯瞰できるように稽古を重ねます。それほど、俯瞰と言うのは難しいのです。

 よく、自分が二人いて、もう一人が頭の上後方にいて、眺めている光景が浮かぶことがあります。そして、そういう体験をしている人を何人も見たり聞いたりします。
 私も、普段にはそんな光景をよく見ます。しかし、大事なのは、混乱したり、四苦八苦している時に、俯瞰できるかどうかが問題です。

 常々から俯瞰できるようにするのが修行ですが、我を忘れて没頭する事もあると思います。仕事でも、子育てでも、諍いでも、普通に生活をしていても、人は集中すればするほど、自分を見失います。

 そんなとき、客観的な目で自分を観る事ができれば、ありがたいですね。

 それを、武蔵は「鼠頭午首鼠頭午首」と思いなさい。と言っています。

 「客観客観」「俯瞰俯瞰」でも「冷静に冷静に」でも、自分に合った、一息つける言葉を作って、思い出してみたらどうでしょう。
(うちの猫は冷静に見つめてますね!)

 【参考文献】 
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.

   【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html


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