【五輪書から】何を学ぶか? |
今日は、短い文章と口伝です。両方とも短い文章なので、同時に学んで見ましょう。
「水之巻」の最後も口伝を含み、短い文章で綴られていました。「火之巻」もいよいよ最終章であるという事を示唆しているのでしょう。
本来は、「書つくるにあらず」や「口傳」とされているのですから、文章として読み解く事は出来ないのでしょう。
しかし、「五輪書」としては、何らかの意図があり書かれてあるのですから、そこから何かを学ぼうとする気持ちを、放棄する分けには行きません。
私は、どちらかと言うと、理科系だと思うので、根拠の無い推測や憶測を好むわけではありません。
では、文科系は推測や憶測に重きを置いているのかと言うと、そうではないと思っています。私は既に人生の終焉に近づいていると思っていますが、世の中の事が殆ど分かっていません。
人の生き方の問題なので、良いとか悪いとかは言えません。しかし、私は、残りの人生を興味深く生きようと思っています。ともすれば、投げやりな生活を送ってしまいそうな日々を、出来るだけ興味を色々な所に向けて『しんねんこんねん』しようと思っています。
私の母が良く『しんねんこんねん』してるなぁ。と言っていました。私の中では、日本語であり、少なくとも大阪弁の範疇だと思っていました。それが、辞書を引いても、ネットで調べても分かりません。
どんな時に使う言葉かと言いますと、「四苦八苦」や「あがき」が同じような意味だと思います。ようするに、縺れた糸をほどいている時に、使う言葉です。
自分の使っている言葉についても、この有様ですから、世の中の事を分かろうとする事自体が、不遜なのかも知れません。
それでも、体験を通じて経験と昇華して得た一握りの確信を元に、物事を観察していければ良いのかな、と思っています。
【火之巻】の構成
27. 束をはなすと云事
28. いはをの身と云事
29. 火之巻 後書
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27. 束をはなすと云事
柄を離すと言うと、色々な含みがある。刀を持たないで勝つ気持ちも有り、刀では勝たない気持ちもある。様々な考えがあるが、書くことはしない。よく鍛錬する事。
28. いはをの身と云事
巌の身と言うのは、兵法を会得して、たちまち巌(岩石)のようになり、万事あたらざる所、うごかざる所。(口伝)
【広告にカムジャムという物を載せましたが、巻き藁を木にくくり付けるのに使っています。これはとても便利です】
『私見』
まず、「束をはなすと云事」という事について、考えて見ましょう。
曲解かも知れませんが、結論から言うと、刀を持っていても、また持たない時でも、一旦戦いとなれば、勝つ方法を考えて対処すれば良い、と言っている事にします。
ですから、「太刀にてかたざる心あり」を、「刀では勝たない気持ちがある」と考えると、どうも腑に落ちません。
史実ではどうも違うようなので、吉川文学の影響かも知れません。巌流島で佐々木小次郎と戦った時に、刀ではなく、相手の長刀よりも長い櫂を削って、戦っています。刀に拘らないと言う意味ではないのでしょうか。
私事ですが、身近な人に、結構悪い人がいました。私には良い人だったんですが、兎に角よく町で喧嘩をしました。勝てばどんな方法でも良いという考えだったんでしょう。
ある時、その人のバイクの後ろに乗っていて、乗用車の人と喧嘩になりました。ちょっと、待っててと言うと、二人でちょっと離れた所に移動しました。見ていると、相手の人の後ろを歩き、下を向いて何か探している様子です。おもむろに、屈むと立ち上がるやいなや、前の人の後頭部をレンガで一撃しました。
また、ある時は、レンガで頭を殴打して、パックリ開いた傷口に砂を入れていました。もう、正気とは思えません。そんな人が、私に喧嘩の仕方を教えてくれました。
半面教師なのかも知れませんが、私は物を持ったことは、一度もありません。
若い頃は、その人以外にも、なんだか、私の周りには、そんな危険な人が、傍にいました。ある人と歩いていて、前から来る人と喧嘩になりそうになりました。彼は、ごめんと頭を深々と下げ、下駄を脱いで相手の頭を直撃していました。
武蔵と比較する事など出来ませんが、相手と戦う場合には、手近にある物全てを武器と考えている人が、現実にいるという事です。
武蔵が言いたかった事とは違うのかも知れませんが、私には、刀に拘るのではなく、使える物全てが武器であると、言っているように思います。
次に、「いはをの身と云事」についての見解です。「万事あたらざる所、うごかざる所。」は、現代文に訳していません。
過去に数度ですが、不思議な体験をした事があります。自由組手をしていて、相手が自分の居る場所と違う位置に攻撃をするので、注意をしました。すると、周りの者から、「先生が動いているんですよ」と言われたのです。自分では全く動いた感触はなかったのです。
同じ時期に、また、自由組手をしている時、カメラのシャッターが下りるように、一瞬目の前が真っ暗になったと思ったら、相手が倒れていました。もう、40年近く前の出来事です。
それ以後は、道場で無心になる事を、意識して止めています。
この事が、「巖の身」かどうかを、検証する術(すべ)を持ち合わせていません。
【参考文献】
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html
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