サイトアイコン 髓心

「五輪書」から学ぶ Part-74
【火之巻】後書

スポンサーリンク
 【五輪書から】何を学ぶか?  

 ついに、【火之巻】も終局を迎えました。

 長かったですね。毎日読むのも大変でしょうね。書くのも、大変です。

 それでも、思いのほか勉強になっています。あらためて気づく事が多かったように思います。書くという事や、教える事で、一番得するのは、自分自身です。

 空手でも、習っている時よりも、教えるようになってからが、修行だと思います。人に物事を伝えるとか、教えるとかは本当に難しいものです。自分が出来るから、相手に伝わるかと言うと、そうでもありません。また、自分が出来るようになる事も修行ですから終点がありません。

 私は、習う側にも教える側にも、守らなくてはならない、前提があると思っています。
 例えば、習う側に主張があり、教える側にも主張があるとします。その方向が違っていた場合は、教える事も、習う事も、上手く行く筈はありません。習うという事と、教えると言うのは、敵対する関係ではないのです。

 親と子、先生と生徒、上司と部下、色々な関係の中で、前提としてその関係を成立させておく必要があると思っています。

 個人でなくても、組織であっても同様です。具体的な例で言いますと、会社には社是、社訓、経営理念などがあり、学校にも教育理念などがあります。私が卒業した日本大学では「自主創造」を掲げていました。

 財団法人全日本空手道連盟では、「空手道憲章」を掲げていますし、それぞれの組織では、その組織が理想とするものや、目的とするものが掲げられ、その組織を支える人たちが、目的を見失わないようにしています。船で言う、羅針盤の役目を果たしています。

 今、問題になっている、相撲協会の問題でも、一方的に物事を進めても、解決する物でもありません。相互の理解がなくては、折角の努力が徒労に終わってしまうのが世の常です。特に、正義感や思い込みと言うのは、危険なもので、思い込んだ事が正義であると、誰が判定できるのでしょうか。

 私は、個人と個人であっても、組織上の事でも、どちらにも、前提とするものが必要であると思っています。この事は、武蔵が大の兵法、小の兵法と言っているのと同じです。
 前提と言いますと、それは、双方が納得、又は、自明とされる常識が共有されているという事です。

 今回の「後書」では、武蔵の中では常識であった事が、時代とともに違ったものになってしまったのではないかと思っています。自明とされる常識に違いが出てきているのですから、愚痴っぽくなっても仕方が無いのかも知れません。

 私も、現状の空手界とは違った方向を見ています。しかし、現状の空手界を否定するものでは、ありません。現に同じ道場で育った師範が、現在は、財団法人全日本空手道連盟の副会長をしていますし、当道場の道場長も大阪市、大阪府の空手道連盟の役員をしています。私は自分の考えが正しいとは思っていません。

 競技空手をする場合には、競技空手の前提を理解し、それを守らなくてはなりません。それが、組織というものです。

 それでも、武蔵の兵法を学ぶためには、武蔵の前提を理解しなければなりません。
 私は、武蔵の考え方とは違いますし、どちらかと言うと、柳生宗矩の方を取ります。それでも、少し違いがあると思うので、「髓心」と名付けています。

 

【火之巻】の構成

29. 火之巻 後書
  
『原文』
29. 火之巻 後書 (原文は、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.htmlを引用した)
右、書付る所、一流劔術の場にして、たへず思ひよる事のミ、書*顕し置もの也。今始て此利を記すものなれバ、跡先と書紛るゝ心ありて、こまやかにハ、いひわけがたし。さりながら、此道をまなぶべき人のためにハ、心しるしになるべきもの也。(1)我若年より以來、兵法の道に心をかけ、劔術一通りの事にも、手をからし、身をからし、いろ/\さま/\の心になり、他の流々をも尋みるに、或ハ口にていひかこつけ、或ハ手にてこまかなるわざをし、人めによき様にみすると云ても、一つも實の心にあるべからず。勿論、かやうの事しならひても、身をきかせならひ、心をきかせつくる事と思へども、皆是道のやまひとなりて、のち/\迄もうせがたくして、兵法の直道、世にくち、道のすたるもとゐ也。劔術、實の道になつて、敵と戦勝事、此法聊かはる事有べからず。我兵法の智力を得て、直なる所を行ふにおゐてハ、勝事うたがひ有べからざるもの也。(2) 
【リンク】(1)(2)は【註解】として、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」にリンクされています。

 『現代文として要約』

 29. 火之巻 後書

 右に書き付けた事は、我流儀が実戦の場で、常に信条としている事のみを書き記した。今初めてこの利点を記すので、後先が違っている事もあり、詳細には書くことが出来なかった所もある。しかし、この道を学ぶ必要のある人の為には、道標となる。
 私は、若年より兵法の道に精進し、剣術については、一通り手や身体を余すことなく鍛練し、色々、様々な心境になり、他の流儀も研究したが、口先だけの者や、あるいは小手先で細かい技術を磨き、人の関心を寄せてはいても、一つも内容の充実したものはない。もちろん、このような事を習って、身体に覚えても、あるいは、戦い方を会得しようと思っても、皆兵法を習得するのに邪魔になり、後々までもその癖は無くならない。
 このままでは、兵法の真の道は、朽ちて道が廃(すた)っていく事になる。剣術の真実の道を得て、敵と戦って勝つ事が、少しでも変わる事があってはならない。
 我兵法の智力を得て、真実の方法を行えば、勝つ事を疑うものではない。

【広告にカムジャムという物を載せましたが、巻き藁を木にくくり付けるのに使っています。これはとても便利です】

『私見』

 ここに書かれてある内容について、とやかく言う筋合いはないと思います。武蔵から見ると、当時の剣術家や剣術を生業(なりわい)にしている人達について、違和感を感じながら、世を憂いている様子が、ありありと表現されていると思います。

 とやかく言う筋合いはない、と言いながら、私の見解を述べてみる事にします。歳だけは、武蔵を遥に超えていると言う単純な理由で。

 古代エジプト時代から、その時代、その国に、「最近の若い者」という言葉があるみたいです。日本では枕草子(二六二段)の中で清少納言が、最近の若者の言葉の乱れについて、みっともない。といっています。

 この問題と、武蔵が言う最近の云々と言う事には、相当の隔たりがありますが、世の中では、自分が正しい道を行っていると思うと、他の生き方が間違っていると判断しやすいと思いますから、引き合いに出しました。 逆に、山本五十六のように、年配者も若い頃には、同じように言われたものである。何をしたかを非難するより、何が出来るか、その可能性を見つけてやれ。と言われた事が今に伝えられてますが、尤もな話ですね。

 私は、その人が見ている方向に、違いがあるのではないかと、思います。価値観の相違と言えるのかも知れません。

 極端に言いますと、武蔵は兵法、すなわち剣は、あくまでも戦いに勝つ道具であると、一貫して主張しています。「五輪書」を通してですが、一点の曇りもないでしょう。
 しかし、時代は戦国の世の中から、天下泰平の時代に流れを変えた時期を考えると、剣そのものを武器としてではなく、道として昇華し、人格形成の道具として捉える人が出てきてもおかしくありません。場合によっては刀を、人間が創造した美術として捉える人もいたのでしょう。

 真逆と思える、柳生 宗矩の存在が如実に物語っているのではないでしょうか。そして、時代に即した生き方をした、柳生 宗矩は、当時の武芸者の中で最高の地位を得る事になります。

 もしも、勝ち負けに拘るなら、武蔵は価値観を変えた方が、今で言う「勝ち組」になったのではないかと、考えてしまいます。

 ただ、武蔵の足跡は別にして、武蔵の晩年を見た時、孤高の人であった事に魅力を感じる人が多いのではないかとも思っています。

 人それぞれの人生ですから、何に魅力を感じ、どういう価値観を持つかは自由です。しかし、自分の価値観が唯一のものとしてしまうと、この世を自分で狭くしてしまい、生き辛くしまう事になると思います。

 私は「仙人」を目指していますので、価値観が偏ったものになっているかも知れません。ただ、社会生活を円満にしようとすると、人の価値観も受け入れる必要があると思います。

 これも常々言う事ですが、幸せな人生を送るためには、「足るを知る」事だと思っています。仏教用語では「諦観」ですが、要するに若い間に、「身の程を如何に知るか」によって人生が豊かになると思っています。これは、自戒を込めて、そう思っています。
 これから人生を切り開いて行こうとする人は、現在の自分と人が考える自分とのギャップを出来るだけ、詰める努力をするべきだと思います。その上で、今の自分より少しでも努力して、上を目指すべきではないでしょうか。(写真は龍安寺の石庭です。石の数の意味と、蹲(つくばい)に書かれた吾唯知足の意味を噛み締めて見るのも良いかも知れません。)[蹲(つくばい):手水鉢(ちょうずばち)の事]

 「足るを知る」と、人に対して、会社に対して、国に対して、社会に対して、愚痴る事は、随分少なくなると思います。

 例えば、自分が思うよりも給料が少ない場合は、その給料に見合った自分だと思えば良いのです。
 「足るを知る」と言うのは現状に満足する事です。満足する事で、スッキリ、スタートラインに立つ事ができます。それから、よーい、ドン。一生懸命に走るんです。結果は後から付いてくる、と言うのはこういう事だと思います。
 結果は、寝ていても、愚痴っていても、付いては来ません。足るを知った上で、現状を把握出来れば、夢や希望が叶えやすくなります。なぜなら、地に着いた目標ですから。
 満足する事を、起点としてみては、どうでしょう。違った風景が目の前に広がるかも知れません。

 武蔵は、能力が優れている分「足るを知る」と言う事は、無かったのかも知れません。  

 【参考文献】 
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.   【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html


スポンサーリンク
モバイルバージョンを終了