髓心とは

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『髓 心』という言葉は、私が27歳の時に若輩浅学をも顧みず、思うところがあり自らの修行のために創った造語です。日本空手道髓心会の修行の目的であり、過程であり結果です。
 近年京都に隨心院なるお寺が存在することも知りました。隨心院がどのような意味を持つかは調べてはおりませんが、機会があれば、勉強してみたいと思っています。
 また、世の中、本当に知らないことばかりなので、他にも『髓心』という言葉を使っておられる方もいらっしゃるかもしれません。私は、心というものに非常に興味を持つようになりました。「うれしいこと」「悲しいこと」「怒りや苦しみ」「迷い」等、特に空手道については、怠惰な心や恐怖心などが常に修行の妨げになっていました。そんな思いに振り回される心と、そんなことに振り回されてはいけないという心が、同じ人間の中に共存しているように思ったのです。そしてこの「振り廻されてはいけないと言っている心」に出会って見たくなったのです。
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『心の求めるところ』
 『心の求めるところ』
 性善説や性悪説などについては、幾多の賢人と呼ばれる人たちや多くの哲学者によって諸説が披露されております。善であるか悪であるかは諸説にゆずるとして、歴史を振り返って見ますと、人類は、戦いなくしては語ることができない足跡を残してきたことを知ることになります。
 現に、わが国でも戦国の時代と呼ばれる以前から争いはつきることなく、近年では第二次世界大戦という悲惨な体験がありました。
 にもかかわらず、今日では武力をもって国を守るべきか否か、などと国際社会から選択をせまられています。こうした現実をみますと、戦うことが人類の避けて通れない道なのかと苦慮してしまいます。古きは聖徳太子の「和をもって尊し」。今日でも、世界平和はみんなの願いでもあり、わが国の憲法にも戦争放棄の思想がつらぬかれています。
 しかし、今このときも、世界のどこかで戦争が起こり、罪もない子供の命が無残にも奪われ、家族が引き離され、生活の基盤をなくし、今日の糧さえ滞る有様を知らされます。ごくごく身近なところでも、小さな争いの止むことがありません。
 戦いを前提とした空手を標榜する私が、なぜ? と思われるでしょう。それは、私が求める空手道は、「争わない」ことを目的にしているからです。動物は生きるために、戦うという本能を与えられています。人間は戦うこともできますが、戦わないことを選択することもできます。動物が戦わないときは、本能的に戦うことで身の危険を察知するときです。
 しかし、人間は、戦うことのむなしさと、他の者へのいたわりや思いやり、分別によって争いをさける叡智をもっています。しかしながら、歴史の上では、戦うことのむさしさも、他の者へのいたわりや思いやりも、苦渋の思いで捨て、戦わざるをえなかったこともあったことでしょう。
 しかし、これを叡智とすることは、歴史の傲慢であるといえます。勝てば官軍といいますが、理不尽な思いがつのります。
 心は何を求めているのでしょう。いや、心に問いかけることこそ意味があり、必要なのではないのでしょうか。

 人類を取り巻く環境と、人と人が構成する社会がこれからもずっと存続できるよう、常に心に問い続ける必要があるのではないでしょうか。私が求める空手道は、「争わない」ことを目的にしていると書きましたが、これは特殊なことではありません。もとから、武道とは争わないための叡智であると思えるのです。武という文字が、干戈を交えている中に入って止める、と構成されていることを忘れてはなりませんし、本来の意味とは違っても、道という文字が、首、すなわち頭を使って進むと書くことからも、その本質には先達の願いと進むべき未来が示されていると考えられないでしょうか。

  1. 修行の目的を忘れないこと。
  2. 続けようと思うこと。
  3. うまくなりたいと思うこと。
  4. 強くなりたいと思うこと。
  5. 自己を見つめること。

 修行とは常に自分との戦いです。「無心の前の一心」。目標成果を達成するために、心の置かれた所に心があるか、常に自分を見つめ続けることが修行の基本と原理原則です。また、『老子』第三一章に「兵は不祥之器にして、君子の器に非ず」とあります。 問うも「心」、問われて答えるのも「心」。ここに二つの心が自分自身の中に存在することを自覚します。
 善悪ではなく、すべてを生み出す「心」(後述)に、人としての叡智を問いかけ問いつづけること。人類がなぜ、社会を構成しないでは生きられない存在であるかをここで論じるつもりはありません。
 しかし、人類とこれを取り巻く環境の存続を考えるとき、社会的な動物である人間のとるべき行動に方向性が見出せます。人だけではなくすべてのものに対しての共生が必要だと。心の求めるところは、道を歩む心に芽生えます。道を歩む心が、常に共生を忘れないようにすることが、修行の要になります。要を見失った空手は、ただの暴力にすぎません。

『心の置き場』
『心の置き場』
 よく、「仕方がない」とか、「しょうがない」などと云って諦めることがあります。では、本当に「仕方がなかった」のかと考えてみると、ほとんど結果に対して自らを慰めるためか、もしくは投げやりな気持ちで使っていることが多いのではないでしょうか。物事に結果があるということは、始まりがあったということです。そして始まってから結果に至までに経過があったはずです。この経過をどうして経るかが「仕方」です。物には仕方がある、と云います。もちろん空手道の修行にも、「仕方」があります。
 では、段取りやマニュアル、あるいはカリキュラムがあれば、望む結果を生むことができるのでしょうか。かりに、このマニュアルやカリキュラムは先達の師が長い年月をかけて会得したもので、しかも、最先端の科学の検証を得たものだとしましょう。
 例えば、国が総力をあげ、英知を集めて作成した教科書とカリキュラムによって教育がなされ、全ての国民が同じように成果を得られたでしょうか。
 マニュアルやカリキュラムは、指針こそ与えてはくれますが実践するのは、自分自身です。指導者は、適切なアドバイスや、叱咤したり、あるいは激励することはできますが、これを聞き入れ実践するのは自分自身です。いかにわが子であっても、弟子であっても親友であっても、自分以外を変えることができないのが世の定めです。自分自身と云えども、過去の自分を変えることはできないことは言うまでもありません。未来の姿を夢見ることはできるとしても、現実ではありません。唯一、我々に許されているのは、現在の、今この時の自分自身を変えることができる。ということの他に許された能力を持ち合わせておりません。そして、その積み重ねこそが現在の自分自身に他なりません。
 その唯一の能力はどこから発せられるか、それは自らの心です。その心の置き場によって、同じ「仕方」でも成果に大きく差がでます。
 ここでいう心の置き場とは、こうありたいと思う「想い」であり、「願い」です。

 では、どこにその心を置けば良いのでしょう。

  1. 修行の目的を忘れないこと。
  2. 続けようと思うこと。
  3. うまくなりたいと思うこと。
  4. 強くなりたいと思うこと。
  5. 自己を見つめること。

 修行とは常に自分との戦いです。「無心の前の一心」。目標成果を達成するために、心の置かれた所に心があるか、常に自分を見つめ続けることが修行の基本と原理原則です。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくにごとし。・・・・・・・「方丈記」
祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらわす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。・・・・・・・「平家物語」

「諸行無常」、この世の中のすべてのものは、同じ所にとどまることはなく、時間が流れていくように、あるいは川の流れのように、同じ状態をつづけることはないというような意味であろうと考えています。自分がいかに決意した心であっても例外ではありません。ですから、修行は自分自身との戦いであり、目的(心の求めるところ)と目標(心の置き場)そしてその仕方を定めておかないと、どこにいってしまうかわかりません。本末転倒の結果を生むことにもなります。

 この冒頭に「仕方がない」とか、「しょうがない」などと云って諦めることがあります。と書きましたが、「諦める」とは「明らかにする」という意味であったようです。諦という漢字(中国語)の本来の意味は、つまびらかにする、明らかにする、まこと、さとり、などで、佛教のことばでは、諦めは「明らか」であり、明らかに見極める、ものごとをはっきりさせるという意味があるそうです。「真理を観察して明らかにみる」という意味もあり、また、ものごとを正しく見て、あるがままに受けとること、などとあります。ですから、簡単に修行をやめてしまうことは、単に投げ出すということだと思います。悩み苦しみ頭の中を堂々巡りし始めたら、諦観し「馬鹿な考え休むに似たり」と頭の中をスッキリと明らかにする。これが「諦める」。諦観すれば、おのずと「心の奥の心」が答えを導き出してくれる。これが修行。心の置き場には、欲望の塊を置きました。続けようと思う心も、うまくなりたい、強くなりたいと思う心も、修行の目的に固執することも欲望にほかなりません。修行とは、その欲望を達する過程を経てこそ意味があります。そしてその欲望こそ「心の置き場」であり、その選び方こそ「仕方」にほかなりません。
『二つの心』』
 心には、二つの姿があります。一つは、環境・情報・刺激などに敏感に反応する心。今ひとつは、混沌とした内から発せられるエネルギーとしての心。私は前者を「我心」、後者を「髓心」と理解することにしました。これまで、いろいろな呼び方で「心」を表しましたが、二つの心の性質を理解することで、より修行が指し示す目標を見つけやすくなるでしょう。「髓心」そのものの本質は変わらないものと確信しています。諸行無常の世の中で唯一変わることのないものと思っています。それでも、変わることがあるとすれば、人類が測ることのできないほど、ゆっくりと変わっていくのかもしれません。ところが、日本空手道の始祖であり松涛館流の創始でもある、船越義珍翁(富名腰義翁)の著による「琉球拳法 唐手」に、
「例へば湯のやうなもので、始終相當の熱度を與へないと、直ぐに冷えて元の水になつて了ふ。」
と、修行のあり方を表現されていますが、自らの心の移ろいを観察していますと、いかにも、そのエネルギーが消えてしまうかのような感じを受けます。これは、「髓心」から発せられるエネルギーがなくなってしまうのではなく、「我心」が「髓心」とのつながりを見失ってしまった結果によるものであると思っています。「我心」の働きは、生きるために必要な自己防衛であり、物事を創作する心でもあり、夢想・想像・妄想、あるいは傲慢・謙虚、怠惰など、自らの性格にもなります。「我心」は、その時代の背景を常識とし、これを正しい事として認識します。何を正しいと思えるかがその人の人生を左右します。そこで、表面上の社会に適合することを正しいとするならば、社会的な動物としての人類の役割から逸脱することも十分に考えられると思っています。「近頃の若者は・・・」。というと、江戸の川柳にもあったとか、随分大昔から言われていると聞きます。最近では「近頃の大人は・・・・」あるいは「近頃の子供は・・・・」。
 と、言いたくなるような出来事が増えてきているような気がしてなりません。私なりの考えですが、大いに戦後の教育の影響があったと考えるべきだと思っています。第二次世界大戦後、教育のコンセプトは、帝国主義に対する思想の抑圧からの脱却であったように思います。
 もちろん、このときの時代の背景を考えると、自ら望んでというより、戦勝国からの押し付けであったことを否定するものではありません。
 しかし、このこと自体に異存があるわけでもありません。個人の尊重、主権在民。あるいは自由と平等という概念を否定するものでもありません。この本来の思想は、人として生きるための最善の方法であるとも思っています。
 しかし、社会を構成する人としての基本と原理原則を身につけない者に対してまでも、その考えを尊重し、自己主張に耳を傾けなければならないとしたら、当然社会に適合しない考えや自己主張が大手を振って社会を席捲するのは、火を見るより明らかではないでしょうか。
 これを法律によって規制するのであれば、単に罪人を増やすことにならないでしょうか。ルールを教えないで、ゲームをさせ、ルールを侵したら罰金。法律は、自ら助けるものを助けるようにできています。自らを法から助けるのではなく、自ら法を守れる常識を、まず教育されなければならないのではないでしょうか。もちろん、法律には必ず、公序良俗に反しない限り、とありますが・・・・・。
 ルールによって成り立つものに、スポーツがあります、ほんの少し前までは、スポーツマンシップにのっとりとか、正々堂々とかの言葉が「かっこよく」見えました。

【山下は、準決勝の試合で、右足の筋断裂という重傷を負い、足を引きずりながら決勝戦の試合に臨んだ。対するエジプトのラシュワンは、山下の傷ついた右足を攻めなかった。そして山下は、ラシュワンを崩し、押さえ込んで金メダルを獲得した。】
1984年ロサンゼルス・オリンピックでの決勝戦の話です。

 ところが、近年注目の的であるサッカーなどを見ていますと、審判の目をくぐり、あるいは審判の目を紛らわし、勝つための戦術といわんばかりの光景を目にすることが大変多くなってきています。もちろん、東京オリンピックの時代から、審判の必要以上の自国の贔屓など、あるいはドーピングなどの問題を目の当たりにしてきました。これが、国際ルールなのでしょうか。
 若い人に、このような状況について意見を求めますと、「いいんじゃないんですか」「当然ですよ」「そうしなければ、勝てない」「勝たなければ意味がない」「スポーツマンシップ? 奇麗事ですよ」「判らなければいいんですよ」と、平然と答える。
 この現象が今の世の中そのものだと思えてきます。少年の凶悪な犯罪は、後を絶ちません。うまく、世渡りすることを常識と考える一見エリートに、将来を委ねてしまって良いのでしょうか。国会議員を筆頭に、官僚・公務員(警察官・教師を含む)・大企業のテイタラク振りが現実の社会です。戦後10年か15年たつかたたないうちに、子供に対しての人権を口にするようになりました。子供にとっては、理不尽な思いが幾分軽くなったように思います。
 それから、20年くらいの間は、思想であるとか、自己主張といわれてもまだ国民が慣れていないこともあり、また、まだまだ明治気質というか、このことを良いこととは思わない人たちが多くいたこともあり、表面にはでてこなかったと思います。
 バブルの崩壊とともに、将来の展望も、また正しいと思える尺度も一変し、噴出したように社会不適合人間の存在があらわになってきたように感じます。
 歯止めがなくなったというか。ここ10年くらいの新聞紙上を賑わした宗教・家族・少年・議員・教師などの犯罪に何か共通点が見出せるのではないかと思っています。
 今こそ、社会を構成する人としての基本と原理原則について考える時ではないでしょうか。「我心」は、教育されるべきであると思います。社会を構成する人としての基本と原理原則に基づいた教育が、今こそ必要であると確信しています。「我心」は、「髓心」とつながり、人としての叡智を出現させる、すべてを生み出す「心」です。「心」が社会的動物であることを忘れたとき、そこに現れるものは、破滅であり破壊であろうと危惧しています。

『心と体』
『心と体』
 自己主張がいけないとは思いません。社会を構成する人としての基本と原理原則の上に立った自己主張が必要であると考えています。修行には仕方があり、自己主張も必要な時期があります。このことは、『道程』の項で、修行の段階として後述します。
 目は心の窓といいますが、心と体には密接なつながりがあります。そして、心は体をともなって、人としての行動を起こします。頭の中で考えているうちは、善行ともならないし、犯罪ともなりません。
 しかし、ひとたび、それが言葉となり、行動となったとき、他者とのかかわりとなります。いわゆる社会的な動物としての営みがあります。自己主張もひとつの表現であり、心の発露です。
 とりわけ、修行の浅い時期においての自己主張は、成長の妨げになることがあります。基本と原理原則に基づかない動作を臨機応変という人がいますが、これはあやまりです。基本と原理原則に基づくとは、基本と原理原則に固執することではありません。基本と原理原則からこそ自由闊達な行いが見えてきます。基本も原理原則も無視した行いは、無謀であり、やけっぱちとしかいいようがありません。蛮勇とでもいうのでしょうか。
 にもかかわらず、個性をのばせ、個性を大切に、自由な発想を・・・・・。個性は、伸ばさなくても、大切にしなくても、縛り付けても、開花するものです。その人そのもの特有の性質ですから。
 ただ、阻害要因はとりのぞく必要があると思っています。いつかは開花するものでも、限られた人生の中で開花させようとしたら。この阻害要因、自らの心と体が誘引となっていることに気がつきます。特に、先の項にも述べましたように戦後の教育がその大きな要因となっているのではないかと考えています。
 生まれたばかりのときは、自己主張しないと死んでしまいます。おなかが空けば泣き、オムツが汚れれば泣き、泣くことで自己主張を精一杯しています。保護されないと生きていけない時期は、生存の手段として自己主張します。ところが、この習慣が大きくなるまでつづくと、生存以外の自己主張もするようになります。人は学習しながら成長しますから、概ね大人とよばれるようになるまでに、自己主張の通らない度合いというか、むなしさを乗り越えてくるはずだったのでしょう。思うようにならないのが人生と。
 ところが、ようやく、折り合いがつきそうなときに、「自己主張が足りない」「堂々と自分の意見を言いなさい」時には「自分の考えたとおりに遣り通しなさい」などと追い討ちがかかります。
 では、自己主張は通るのかというと、そうではありません。極端に反論することも、徹底的な議論もここではされません。なぜなら、そういう主張もあり、そういう価値観もありと認め合うことが、社会人として、あるいは大人としての振る舞いと、暗黙の了解をえることで人との摩擦をさけています。
 半疑問などと、訳の解らない言葉が横行するようになりました。摩擦をさけることは、社会人として間違ってはいないのですが、発端が、身勝手な想いこみなどの「自己主張」であれば、当然摩擦が生じるはずなのです。
 にもかかわらず、自己の主張が通ったような、通らないような、釈然としない気持ちだけが残るようになります。これは、ストレスを招く格好の条件です。たとえば、親切にしても、相手を思いやる心がなければ、「小さな親切、大きなおせっかい」になります。
 まだ、おせっかいならいいのですが、大きな迷惑になることも間々あります。
 私は、勝手に「親切」と「思いやり」を分けて考えています。それこそ自分勝手に。ですから、あくまでも便宜上。
 「親切」は、自らの発想で考え、こうすれば喜ぶだろうと思い込み、親切が自分のやりたいことになっている場合。これは、自己満足ともとれることだと思います。しかし、自分は「人のため」と思っていますから、相手が喜ばなければ、不満が残ります。あげくは、こんなにしてやっているのに。と、相手を誹謗するようになりかねません。
 「思いやり」は、社会的動物としての役割として、あるいは自ら責任を感じて行う行為であり、決して見返りを考えることもありません。
 逆に、自ら何かをできる状態に、感謝する心も湧いてきます。「思いやり」は、一方通行ではありませんから、痛みを伴うこともあります。それでも、自己の責任においてする行為ですから、やりがいがあります。
「自己主張」が過ぎると、自己顕示欲や勝負に対し異常な執着をみせます。

 『謹慎謙譲 空手道最大の美徳』

 前出の船越義珍翁が、残された言葉の一つです。この言葉には、社会的動物として正しい生き方が示されていると思います。「慎む」「譲る」といったところから、空手道の修行が始まらなければなりません。
 そこに、相手に対する礼儀や節度が必須になっていることも、理解できると思います。
 ところが、我々戦後の教育を受けた者には、「自己主張」が阻害要因となり、「慎む」「譲る」といった発想が引っ込んでしまいます。すぐに、対等であることを主張したくなります。教える側も、教わる側も対等であることが、人格の尊重であると誤解しています。
 教わる側には、教わる姿勢と態度が必要です。これも、義務教育が歴史で風化し、当初の心を忘れてしまった結果によるものでしょうか。生きるための選択肢を広げるために、国民に豊かな生活ができるようにと、義務教育が設置されたのではなかったのでしょうか。
 ですから、教わる側には、教えてもらえるという感謝の心があり、教えてくれる人に対する尊敬の念があったはずです。
 戦後しばらくは、先生と生徒の関係は、このような関係が自明であったように思います。たとえ、お金を払ってでも、知りたい、会得したい、身に付けたい。こんな気持ちが、ものの習得には大事なことなのです。
 昨今の教育はどうでしょう。一部であるのかも知れませんが、お金を払っているのだから、教えるのは当たり前。お金をもらっているから教えなければならない。こんな関係で教育が成り立つはずもありません。
 教える側にもおおいに問題があります。教える側は、自らの使命を認識するとともに、育てることの喜びに感謝するべきだと思います。

 

 教えられる側に迎合することは、すでに教えることを放棄していることでもある。と言えるのではないでしょうか。もちろん、教える側には、先に述べたように「思いやり」の精神がなければなりません。
 常に自分が教える側にあって恥じない行動を伴わなければならないことは言うまでもありません。教える側と教えられる側には、こういった相互の関係がなくてはなりません。
 そこで、「瀉瓶」という関係の重要性を省みる必要があります。専門的に研究されている人から見ると「瀉瓶」の意味の違いがあるやも知れませんが、私は次のように「瀉瓶」を解釈しています。
 教えられる側にも、当然今まで生きてきた考えがあり、遣り方もあるとは思いますが、ここで、自己主張することが、教えられることに対する阻害要因となります。
 例えば、空のコップに水を注ぐことは、だれにでも容易にできるでしょう。
 しかし、満たされたコップに水を注ぐことは至難の業だということは、すぐに理解できると思います。
 ところが、なかなか、この空のコップを出すことができません。自己顕示・自己主張がトラウマになっているのか、プライドが頭をもたげます。

【瀉瓶・写瓶】(瓶の水を他の瓶に移し入れるのにたとえる) 仏法の奥義を遺漏なく師から弟子に皆伝すること。写瓶相承(しゃびょうそうじよう)。(広辞苑)

 謹慎謙譲、すなわち謙虚な心のあり方でなければならないもう一つの訳があります。それは、私たちが思ったり考えたりすることは、すべて、主観に他ならないからです。どれだけ、頭が良くっても、良い人であっても、情報の入力には、自らの主観を介在せずして記憶に留まることはありえません。もう少し卑近な例をあげて考えて見ましょう。
 あなたが、教える立場であった場合を想像してみてください。
道場に入会者がきました。『入会したいんやけど、どないしたらええねん』— この入会申込書をよく読んで、必要事項を記入してください。-『必要事項てなんやねん』—入会申込書の記入欄を見せながら、ここに名前・ここに住所など説明をする-
 と、言うふうに会話が進むでしょうか。
 もちろん開設以来40年以上になりますが、こんな無礼な人が入会したことはありません。しかし、
『入会したいのですが、どうすればよろしいでしょうか』
——この入会申込書をよく読んで、必要事項を記入してください。
『すいませんが、記入の仕方を教えてください』
——入会申込書の記入欄を見せながら、ここに名前・ここに住所など説明をする
 と、ここまでは常識ある人でも、説明を受けている時の返事の仕方は、さまざまです。 
——こちらに、氏名を書いてください。
『うん』・『あぁ』・『うん、うん』『わかった、わかった』・『–』
帰ってくることばは、いかにもぞんざいです。
『ハイ』という言葉をなかなか聞くことができません。

 社員研修を専門にされている先生が、日本から『ハイ』という言葉が消えました、とも言われていました。

 もちろん、この段階では会員ではありませんし、こちらの常識を押し付けることはできません。それにしても、入会後の指導が大変です。
 思い起こせば、当会も初期のころよく言葉遣いについて注意をした時期がありました。
『おい、それ取ってくれ』と、言うのと『ごめん、悪いけど、それ取ってくれへん?』
 と、言うのとどちらが気持ちがええ?
 友達同士でも、言葉は使いようだと教えました。
 親しき仲にも礼儀ありです。合理的に考えれば、言われた内容が大事であり、言い方にいちいち反応していればきりがないのですが。
 実際にはそういかないのが、感情の動物である私たちではないでしょうか。
 口の利き方一つで問題をとんでもない方向に展開させてしまいます。
 ある時あなたが、練習をしていて、どうしても解らないことがあり、礼をつくして、先輩に尋ねたとしましょう。
—すいません、今よろしいですか。
『あぁ』
—この型のこの突きの意味を教えてもらえませんか
『そんなもん、わからんのか。あほか。』と、どやしつけられました。
 あなたには、何が何だかわかりません。きっと、虫の居所でも悪かったのかもしれませんね。
 しかし、後輩と言えども気持ちの良いものではありません。禍根を残すもとにもなりかねません。

 言葉は、それほど重要なものなのです。温度差、とよく言われることがあります。何かに取り組んで一生懸命になっている人と、他人事として傍観している人とでは捉え方にも差があって当然です。
 また、その人が現在理解している度合いや、習得度によっても話が錯綜することでしょう。育った環境や年代によっても話のずれが生じることになります。
 そして、やっかいなことに人間には多かれ少なかれ好き嫌いというものもあるのが現実です。こんなことを、一つずつ解決し取り除いていかなければ、伝えようとすることが色づけされたり、曲解されかねません。限られた時間しか与えられていない現実を如何に効率よく過ごしていくか。
 
 自らができること。それは、自らを変えることしかできません。それも、過去の自分を変えることもできませんし、現在の自分自身を変えることのみ許されているといっても良いでしょう。
 では、どうすれば、素直に教えを乞うことができるのでしょう。ものを習得する上で、なぜそのまま写し取ることが、大切なのかがこのことを通しても解ってもらえるのではないかと思います。
 教えられるということには、反論すべき根拠がないということです。良いとか悪いとか、工夫とかは、まず教えられてから始まるということです。
 教えられるということは、教える側の意図が、教えられる側に伝わるということでその目的が達せられます。教えられる側から言えば、教える側の意図が伝達途中であったり、不十分だった場合には、教える側は、さまざまな方法でこれを伝えようとしなければならないでしょうし、教えられる側は、伝達される過程に起こりうる、自らが発する阻害要因を取り除き、自らに伝達されるために必要な質問以外の権利を放棄するべきだと思います。
 なぜ、ではなく、どうすればそのことが習得できるかをです。
 人は対等でありたいものだということは、理解できます。しかし、往々にして、言葉の上でも、態度でも横柄になりがちです。人を蔑(さげす)みたいのでしょうか、それとも、自分を蔑まれないように防衛しているのでしょうか。
 返事一つにしても、『うん』・『あぁ』など、人を喰ったような、また馬鹿にしたような応対をする人がなんと多いことか。まったく根拠のない自信とプライドは、裸の王様とも見え、滑稽でもあります。また、世の差別の原点とも言えるのではないでしょうか。
 残念ながら虚飾と虚栄に満ちた社会では、こんな虚勢が幅をきかせていることも事実です。

『心の開放』
『心の開放』
 目的(心の求めるところ)と目標(心の置き場)そしてその仕方の大切さ、またこれを定め修行によって成果をあげようとするとき、自らの心、すなわち「二つの心」と「心と体」の介在するさまを、自らのわずかな体験を通じて経験としたことがらを、現在の社会情勢と自らの思いをことばにしながら、話を展開してきました。
 ちなみに、目的とは、空手道を通じて得ようとする最終的な結果であり、目標とはその目的を達するための道標であり、常に目的を見失わないために、その過程で最良の道しるべを掲げ、その道しるべに到達するために、仕方を選び実践する。といった意味合いでそれぞれの言葉を使っています。
≪道程≫
「守・破・離」とは、室町時代の能楽者世阿弥が遺されたことばであり、今もその修行の過程として道を求める人たちが大切にしています。守は、あくまでも「瀉(しゃ)瓶(びょう)」であり、「我心」を抑え、黙々と教えられるままに吸収する段階。石の上にも三年といいますが、最低でもこのくらいの年月はかけてほしいと思います。いかに、武術的才能や能力に長けていてもです。最高の修行とは<どんなものにも波立たない落ち着いた心>と<つらいことに対する忍耐をつくること>と、お釈迦様もいわれたと、何かの本に書かれてありました。私も体験上、なかなか達成はできませんが、そのように感じています。ここで、焦りは禁物です。独りよがりにならないためにも、じっくりと教えに従ってください。破とは、それまでひたすら守ってきたものを壊すという段階です。教えられたことを壊すというのは、本当に勇気のいることです。そして、不安にもなります。昨日まで、金科玉条のごとくに固執してきたものを壊すのですから、並大抵の覚悟ではできません。これくらいの気持ちになるまで、「守」に固執してもらいたいのですが、簡単な気持ちで破られてしまっては・・・。言葉もありません。少なくとも、「守」の段階で、謹慎謙譲を自分のものにしたいものです。

 それでも、「無心の前の一心」朝鍛(ちょうたん)夕練(せきれん)(朝に鍛え夕べに練る)一心不乱に実践を通じて型を破り創意工夫を重ねなければなりません。
離とは、破の段階を通じて得た独自の心境により、自立していくことです。
 自立ということは、自律でもあり、他からの抑制ではなく、自らの生き方に責任をもちひとり立ちしていくことです。「守」の時も、「破」の時も、常に目標があり、叱咤激励してもらえる先生や先輩の庇護のもとにありました。しかし、「離」の段階では、頼る者は自分しかありません。
 釈尊が、「おのれこそおのれのよるべ、おのれをおきて誰によるべぞ、よくととのえしおのれにこそ、まことえがたきよるべをぞ獲ん」自灯明(自らをともしびとせよ)
ということばを残されました。
 本当に頼らなければならないのは、本来の自分(髓心)であり、頼りがいのある自分になるために、自らを良く整えなければならない。といった意味に解釈しています。
 何かにつけ、自立が難しい時代になってきていると思います。自己の権利を主張するあまり、何かをしてもらおうという気持ちが先にたって、自らが何ができるのかを問わなくなってきています。
 自ら何か世のために、あるいは、人のためにできる事が幸せの原点ではないでしょうか。何か人のためにしようと思っているところに、何かをしてもらえれば、素直に感謝の心も生まれます。
 何かをしてもらおうと思っていて、やってもらっても、当然としか思えません。そこには、感謝のこころも生まれませんし、礼儀と節度も生まれてはこないような気がします。
 修行とは、基本と原理原則を徹底的に自分のものにした上で、初めて自己を主体とする発想で稽古し、その結果、自由にして闊達な心境を得ることにあります。
 そして、自立して初めて、「おかげさま」と素直に思える自分を創ることだと思います。ちなみに、「おかげさま」とは、陰になり表にあらわれない好意や善意に気づくことだと思います。
 自立といえども、社会的動物である人間は、どこかで、だれかに支えられて生きているということを、素直に感謝する心をもつことだと考えています。
「離」とは、謹慎謙譲の上にたち、決して不遜や傲慢な思いの自立であってはなりません。釈尊のいう「自灯明」も、自分しか頼るものはいないんだという、なげやりな心で捉えてはいけません。
 自らが主体となって、世のため人のためになれる自分を創造する気持ちを持ち続け、「離」に至る修行を積んでほしいと思います。

『心との出会い
『心との出会い』
 心が開放され、自立した「我心」は、何ものにもとらわれない自由な心、すなわち「髓心」のあるべき姿を表します。
 土の心、草木の心、自然の心、動物の心、隣人の心、生きとし生きるものの心とのつながりを感じる個性の存在を実感します。
「よくととのえしおのれにこそ、まことえがたきよるべをぞ獲ん」
えがたきよるべこそ個性として尊重すべきではないのでしょうか。

 心がどこに居つくこともせず、一心から無心となったとき、思わぬ体験をすることがあります。稽古の時には、組み手の相手との間合いが、遠く感じたり、相手の攻撃のスピードがスローモーションになったり、気がつかないうちに攻撃を捌いていたり、相手と自分との一体感を感じたり、自分の姿を俯瞰できたり。あるいは、非常に短い時間(まばたきするほどの時間)に自らの動きを克明に感じ、体の軸になる部分によってつながりをみせる筋肉・腱・骨などの感覚が非常にするどくなり、細部にいたって自由に自らの意思で統治することが可能となります。
 また、生活の中でも、仕事をする上でも、「髓心」が自らの能力を発揮し、思わぬ成果を生んでくれることでしょう。
 特に、人間関係や生活環境に対する「我心」の働きは、人生そのものを狂わします。「髓心」を求めて型を繰り返しやっていますと、「そうか!」「わかった!」という小さな悟りがあります。
 また、組手においても同様なひらめきが時としておこります。しかし、これは悟りではなく悟るための序章です、一心から無心への切符です。型においても組手においても、「我心」は、即、心の乱れとなって動きを妨げます。
「道場のみの空手と思うな」
と先達の師が言われたように、修行は、修行のための修行であってはなりません。人生を豊かにするための修行でありたいと考えています。

 心の開放は、「我心」によってもたらされ、「我心」によって閉ざされます。
 一生修行が続きます。髓心に触れたからそれで終わりではありません。行く川の流れのとおり、留まることはありません。しかし、もう道は一つではなく固執する必要もありません。寄り道も、あっちの道も、こっちの道も自由に選択できる自分がそこにいます。

次の心の開放を求めて・・・・・・。


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