文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【120】

 今日の文字は『時代じだい』です。今年は平成の時代です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百十九段』を読んで見て、感じた文字です。

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★『安倍首相のご飯論法をパクる片山氏の口上』
(プレジデントオンライン編集部 2018/11/17 11:15)
「前略——- 流行語大賞の候補にもなった「ご飯論法」とはまず「ご飯論法」とは何なのか、復習しておきたい。

AさんがBさんに「今日、朝ご飯食べた?」と聞いたとする。

Bさんは朝、パンを食べた。しかし、ある事情でAさんに朝、食事を取ったことを伝えたくない。

その時、Bさんは「今朝は、ご飯は食べていません」と答える。これが「ご飯論法」だ。

Aさんが聞いた「ご飯」は、コメかパンかを聞いているのではない。「朝食」を取ったのかを聞きたかったのは明らかだ。だから本来なら「はい。食べました。パンを食べました」などと答えるべきだろう。

ところが「ご飯」をコメという意味で聞かれたと意図的に解釈して否定的な答えをするのが「ご飯論法」のミソだ。——後略」

 なるほど、上手い答弁の仕方だと思いました。確かに、国会でのやりとりを聞いていますと、質問する人の意図がありありと、映し出されます。

 政府に対して是々非々の党の場合は、素人の私が聞いていても、質問と回答と言うように受け取れますが、いわゆる野党の場合は、質問ではなく、揚げ足を取るか、あるいは、失言を誘発しようとしているか、もしくは、引きずり降ろそうとしているのか、質問の内容が議論とはかけ離れたものとなっています。

 であれば、「ご飯論法」もディベートとしては、有効かと思います。国会はディベートの場と思っている、国会議員が多すぎます。与党も野党も、国会は議会である事を忘れないでほしいと思います。

 今日あげた記事は、安倍首相と片山大臣に対する批判の為に書かれたのでしょうが、こういう答弁を引き出している側にも、大いに問題があると思うのです。
  
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百十九段 〔原文〕

 鎌倉の海に鰹といふ魚は、かの境には雙なきものにて、この頃もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、おのれ等若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づること侍らざりき。頭は下部も食はず、切り捨て侍りしものなり」と申しき。

 かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『  鎌倉の海で取れるカツオと言う魚は、あの辺りでは匹敵するものが無いと、この頃珍重されている。
 しかし、鎌倉の年寄りによれば「この魚は我々が若かった時代までは、貴人の食卓に出されることはありませんでした。頭の部分は身分の低い者でも食べず、切り捨てた」と言う。

 このような物も、末世の時代であれば、上流階級まで浸透してきたのです。』

 

 

『時代』

 これは兼好法師が『世の末になれば』と言ったと思われます。しかし、『無常變易へんやくの境』といい、『諸行無常』について語っている兼好法師ですが、時代と言うのは変わって当たり前なのではないかと思います。したがって、この言葉には、一貫性がないと思ってしまいます。

 それとも、一貫性が無い事も『諸行無常』で片付けようとしているのでしょうか。ちょっと、皮肉が過ぎました。反省します。

 ですから、カツオであろうがマグロであろうが、人の好みも変わるのが世の習わしでしょう。

 マグロも冷凍技術が進歩するまでは、大トロなどは捨てられていたと聞きます。

 今では、高級な食べ物に変化しているのが実情です。イクラにしても、日本では高級な食材ですが、世界ではイクラを食べない国の方が多いのではないでしょうか。

 食わず嫌いと言う場合もありますが、保存の仕方や、調理の仕方によって、前までは食べられなかったものが、美味しく食べられるようになる事もあります。

 食べ物だけではありません。着る物も随分変わりました。一番私が変わったと思うのは、学生服です。近頃、学生服を見なくなりました。

 この学生服は、家計に優しいと思うのですが、個性が無くなるとか、全体主義を感じさせるとか、色々の理由をつけて、今では着る人、というより学校でも規則が無くなったのでしょうか。

 しかし、依然として制服の人気はあるようにも思います。制服廃止と共に受験者が落ち込んで、また復活したりするケースもあるようです。

 制服も時代と共に、目まぐるしく変化していると思います。それにしても、ブランドの制服と言う話を聞いたことがありますが、これは、ちょっと考えが違うと思うのですが。

 変わったと言えば、私が高校生の頃は、丸坊主だったのですが、生徒と先生の間で、この問題で衝突した事がありました。私はあまり興味が無かったので、どっちでも良かったのですが、そのせいでしょうか、今でも丸坊主に近い、というかそれ以上丸坊主です。

 世の中には、好むと好まざるに関わらず、流行はやりというものもあります。流行はやりですから、当然廃ることもあるのが流行はやりです。何も末法の世の中になったから、上流階級にまでカツオが進出してきたとも思えません。

 私の小さかったころは、鯨が大量に出回っていたと思います。しかし最近はIWC管轄下(国際捕鯨委員会)の元で捕鯨がされていると言いますから、世の中は変化するのが当たり前だと思います。

 鯨は『古事記』にも天皇に献上されたとの一文が見えますし、江戸時代には捕鯨の様子が描かれたものもありますから、鯨とは随分歴史の長い関係だと思います。

 なんだか珍しくなると、値段も上がり珍重されるようですが、私が口に出来た時代の鯨の肉は、そんなに美味しいものではなかったように思います。
 大阪では、関東煮かんとうだきといいますが、昔は鯨のコロと言うものが入っていた記憶があります。なんだか、スポンジのようでした。

 また、クジラには、ベーコンと言うものがありましたが、現在販売されているものに似ていますが、所々に青いインクのスタンプがあった事を覚えています。これも脂ぎっていて、そんなに美味しいとは思いませんでした。今では100グラム2000円以上もする高価な食材になってしまいました。

 飽食の時代と言われて随分経ちますが、簡単に色々な物が手に入るので、生活は潤っているように思えます。その陰で随分食材や食べ物、あるいは衣類まで廃棄されていると聞くと、それで良いのかと思ってしまいます。

 折角、人の生活をサポートする為に行政と言う仕組みを作ったのですから、社会主義であろうと、資本主義であろうと、〇〇主義と言われるような物が出来たとしても、限られた資源を上手く回せるような手立てを考えないと、いつか、自然からしっぺ返しを受けるような気がします。

 人間も自然の中の一員ですから、 自然の摂理を壊すような事がいつまでも続くとは思えません。人間だけが幸せになろうとする考え方も、そろそろ方向転換を図らないといけない時代に突入している事に、気が付かないといけないのではないのでしょうか。