文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【144】

 今日の文字は『臨終りんじゅう』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百四十三段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 臨終

 

『体操、塚原夫妻の職務停止解除 日本協会、パワハラ認めず』
(共同通信 2018年12月10日 21時53分)

「日本体操協会は10日、宮川紗江選手(高須クリニック)に対するパワハラ行為が認められなかったとして、塚原千恵子女子強化本部長と塚原光男副会長に科していた一時職務停止を解除したと発表した。

 問題を調査した第三者委員会は、塚原夫妻に「配慮に欠け不適切な点が多々あった」としながら、懲罰の対象となり得る行為があったとは言えないと結論づけた。

 2016年リオデジャネイロ五輪女子代表の宮川選手は8月の記者会見で、速見佑斗コーチの暴力指導の問題に端を発して塚原夫妻から「五輪に出られなくなる」などと圧力を受けたと告発した。塚原夫妻は主張の一部を否定していた。」

 このニュース、テレビでもやっていたようですが、見ていませんでした。あまり興味は無かったのですが、「パワハラ」と言うのは立証するのが難しいようですが、それでは、この問題を公にした、宮川選手についてはどうなるのでしょう。今度はそれが問題になるでしょうね。

 今年はスポーツ界、相撲も含めて、色々な事がマスコミのネタになったようです。マスコミからの情報が正しいのかどうかも、よく分からなくなっています。

 マスコミは、感情論ではなく、起こった事を詳細に調べて視聴者に流せば、視聴率も稼げると思うのですが、コメンテーターの主観などまったく必要とは思えません。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百四十三段 〔原文〕

 人の終焉の有樣のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、「靜かにして亂れず」といはば心にくかるべきを、愚かなる人は、怪しく異なる相を語りつけ、いひし言葉も、擧止ふるまいも、おのれが好む方に譽めなすこそ、その人の日ごろの本意にもあらずやと覺ゆれ。

 この大事は、權化の人も定むべからず。博學の士も計るべからず。おのれ違ふ所なくば、人の見聞くにはよるべからず。

 

 

『現代文』

『人が逝く時の様子を、立派であったと、人が言うのを聞くと、ただ「静かに息を引き取った」と言えば心に響くものを、愚かな人は、神秘的で不思議な様子を話し、言う言葉も、振る舞いも、自分の好むような褒め方をするのは、その人が日ごろ思っている事でもないと思われる。

 死と言うものは、神仏の化身として生まれた人でも決定できない。博学の士も予測してはいけない。死んだ本人が納得していれば、他人が言うべき事では無い。』

 

 

『臨終』

 できれば、「では、さようなら」と言って死にたいと思っています。しかし、現実は分かりません。もしかしたら、のたうち回るかも知れませんし、この世に未練を残しながら、死ぬのかも知れません。

 父の最後の言葉は、「明日注射しにいくのか?」でした。人それぞれいつの日にか、臨終を迎えます。

 それは、確実に決定している事ですが、何時かは、解りません。もしかしたら、このブログを書いている最中に、「では、さようなら」と言わなければならないかも知れないのが、「死」です。

 この段のように、死んだ本人が納得して「臨終」を迎えようが、不本意な「臨終」であろうが、当の本人は知った事ではありません。当の本人がどうでもいい事を、他人が言うのは筋違いと思います。

 しかし、それで、生きている人が納得できれば、いいとも思います。

 立派な最後と言われようと、無様な死にざまだったと言われようと、死んだ本人に反論する事もできないのです。 そっと送ってやってほしいものです。

 自分の「臨終」を考えた時、できれば、それまでに、準備はしたいと思います。今は、12月ですから、大掃除をいつやろうか、ぐずぐずしています。しかし、早くやっておかないと・・・・、やっぱり今日やっておこうと思います。

 大掃除の準備ではなく、終活と言う意味で、身の回りを片付けて置くと言う思いを書くつもりが、ちょっと横道にそれてしまいました。

 コンピュータの中身も整理したいし、自分の部屋も今は倉庫になっていますので、これも片付けたいと思っています。

 コンピュータは、思い始めて15年程経過してますが、一向に手を出せません。部屋は3ヵ月ほど前に一応整理はしたのですが、今は元の木阿弥です。

 もしまだ少し寿命があるのなら、綺麗に歳を重ねて「臨終」を静かに待ちたいと思います。さんざん人に迷惑を掛けてきた人生だっと思うので、死ぬ時ぐらいは人の世話にならないようしたいものです。

 私は「臨終」よりも、それまでの生き方に興味があります。と言うのも、生まれる事も、死ぬことも、自分の意志ではどうにもならないと思っていますので、少なくとも意志が通じる「生死」の間に関心があります。

 「死んで花実が咲くものか」と言われます。その花と実は、人によって違います。しかし、 どうせ死ぬのだからと、投げやりになっては、折角の人生を棒に振る事になります。

 死ぬことが分かっていても、現実、今は生きているのです。

 それが「人生」ではないでしょうか。そして、「只管」「黙々」と人生を謳歌すると、良いと思います。そして、幸せの条件は「足るを知る」そして、「ほどほど」にの尺度を持つ事だと思います。