今日の文字は『心』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百二十九段』を読んで見て、感じた文字です。
原文
現代文を見る
心
★『若者層が共産党を“保守”、自民党を“リベラル”と見る理由』
(NEWS ポストセブン 2018/11/28 07:00)
「若者達にとって増え続ける高齢者は、自分たちの幸福な世界を脅かす「難民」だと作家の橘玲氏は指摘する。その高齢者が支持するものは若者にとって「保守」であり、高齢者が「保守」だとみなすものを若者を「リベラル」だと見なすという逆転現象まで起きている。橘氏が解説する。
* * *
若者たちが求めるのは、年金などの社会保障制度を持続可能なように改革することだが、これはすなわち高齢者の既得権を破壊することだ。それに対して、「難民化」しつつある日本の高齢者層のなかには、なんの資産ももたず年金以外に収入のないひとたちが膨大にいる。このひとたちは年金が減額されると生きていけないので、どんなことをしてでも既得権を死守しなくてはならない。
若者は高齢者を「排斥」しているのではなく、年金なしで自分たちはどうやって老後を生きていけばいいのかを知りたいと思っている。しかし政治家もリベラルな知識人も、もちろん当の高齢者も、この疑問に答えることができない。こうして日本の社会は、世代間で分裂していく。
世論調査では、高齢者層が自民党を保守、共産党をリベラルと考えているのに対し、若者層は逆に、共産党を保守、自民党をリベラルと見なしている。しかしこの奇妙なねじれも、若者たちが「改革」を掲げる安倍政権を支持し、高齢者があらゆる改革を拒絶していると考えれば理解できるだろう。
新聞やテレビなどのオールドメディアは、保守かリベラルかにかかわらず、いまや読者・視聴者の大半が高齢者になり、彼らが喜ぶ紙面や番組をつくるなかでどこも頑迷な守旧派になり果てている。高齢者を批判する内容は最大のタブーだ。若者が右傾化したのではなく、かつての「リベラル」が右傾化したことで、世代によって「右」と「左」が逆転してしまったのだ。
●たちばな・あきら/1959年生まれ。2002年国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。『言ってはいけない』(新潮新書)、『朝日ぎらい』(朝日新書)、『80’s エイティーズ』(太田出版)など著書多数。
※SAPIO2018年11・12月号」
この記事を見て、徒然草と同じような気持ちを持ちました。徒然草の場合は、徒然なるままに、と序文で断っていますので、主旨がはっきりしなくても、少しは言いたい事が掴めるようになりました。
しかし、この文章は、何度読んでも、この、たちばな・あきらさんが何を言いたいのか、良く分かりません。ですから、全文を引用しました。
世代によって「右」と「左」が逆転したとして、それがどんな意味を持つのでしょう。共産党はリベラルの時代はあったのでしょうか。私には疑問です。
もし、リベラルと言うのが、何でも反対主義であれば、確かにそうでしょうが、本来の共産党は、リベラル、則ち自由主義的であるはずが無いとおもいます。今の共産党は、共産主義から社会主義に主義を変更した党であると、理解しています。
著書多数とありますから、作家なのでしょう。小説や書籍であれば、どのような文学的な書き方をしても、良いのでしょうが、少なくとも記事は、私のようなものでも、すんなり読めるような文章にしてもらいたいと思いました。
この記事の冒頭にある『若者達にとって増え続ける高齢者は、自分たちの幸福な世界を脅かす「難民」だ』と言うのは、このたちばな・あきらさんの主張と言うのは解ります。その次に続く文章にこの主張を裏付ける言葉がありません。
やはり私の読解力の問題かも知れません。もう少し勉強する必要がありそうです。
さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。
徒然草 第百二十九段 〔原文〕
顔囘は、志、人に勞を施さじとなり。すべて、人を苦しめ、物を虐ぐる事、賎しき民の志をも奪ふべからず。また、幼き子を賺し、嚇し、言ひ辱しめて興ずることあり。大人しき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心には、身にしみて恐ろしく、恥づかしく、浅ましき思ひ、誠に切なるべし。これを惱して興ずる事、慈悲の心にあらず。
大人しき人の、喜び、怒り、哀れび、樂しぶも、皆 虚妄なれども、誰か實有の相に著せざる。身を破るよりも、心を痛ましむるは、人を害ふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より來る病は少なし。藥を飮みて汗を求むるには、驗なき事あれども、一旦恥ぢ恐るゝことあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲の額を書きて、白頭の人となりし例なきにあらず。