文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【128】

 今日の文字は『維持いじ』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百二十七段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 維持

 

『竹島問題は「一歩前進、二歩後退…もう辞めたい」 研究者の悲痛なる警鐘』
(FNN.jpプライムオンライン 2018/11/25 18:00)

竹島問題の早期解決を求める東京集会が開催

—–中略—–

「日本は竹島を領土問題、韓国は歴史問題と捉えている」

下條教授は冒頭に「今、国会議員の先生方がお話されていたことを、韓国語に翻訳すると全部韓国側の主張になる。同じことを言いながら接点がないのは非常に大きな問題だ。そういった中で被害を受けるのは地方の国民だけだ」と各政党の議員たちに釘を刺した。

—–中略—–

「韓国の研究者の中にも竹島は日本領だと思っている人が結構いるんですね。ただ、世の中、社会の雰囲気があまりに一方に偏っているので、意見が言えない状況であるんです。我々が強く出ると、韓国側も強く出ざるをえないので、竹島は日本領だと思っている人たちの肩身が狭くなってしまっている現状です。韓国側との話し合いの仕方、外交の仕方、広報の仕方をもう一度考え直していかなければいけないところにきている」

「一歩前進、二歩後退」下條教授の無念と悲痛

—–中略—–

新藤氏は「下條先生の話は本当に忸怩たる思い。私たちは申し訳ない思いがあります。本人は辞めさせてくれといっているが、真逆でありまして、そういうこと言わないといけないくらい苦労しているという受け止めです」として、下條氏に謝意を示した。

そして新藤氏は「大事なことは何よりも竹島問題の本質は何なのか。日本と韓国の見解の違いは何なのか?それをきちんと広く知って頂くことが大事だ」とした上で、2011年の東日本大震災の混乱に乗じて、竹島へのヘリポート建設が行われたこと、韓国が竹島に海洋科学基地の建設計画を進めていることを踏まえ、「もしこのような大規模な施設の改修や、新たな竹島の形状の変更があったら、日本は今までとは次元の違う行動をしなければならなくなる」と韓国側の動きをけん制した。
—–後略—-

(フジテレビ政治部 自民党担当キャップ 中西孝介)

 同じ国の人でも、主張する方向が違うと、平行線になりいつまで経っても議論が続くと思います。

 それが紳士的な者同士の場合は、どこかで折り合いをつけるのでしょうが、どちらか一方が紳士的な議論の場にそぐわなければ、話しは決裂するでしょう。

 この記事にあるように、「日本は竹島を領土問題、韓国は歴史問題と捉えている」とすれば、領土問題と歴史問題のどちらが優先するかを、国際社会でルールを決めるべきだと思います。

 しかし、領土問題が覆されるのであれば、現存する国の殆どは、影響を受けるでしょう。

 また、歴史問題として捉えるのであれば、どこまで遡ると言うのでしょう。その国が存在する前まで遡ると話は、よりややこしくなります。

 この問題は、やはり領土問題として解決するべきだと思います。それでも、そんな自国の領土を不法占拠されていて、いかに隣国は永遠に隣国であったとしても、理不尽な国とわざわざ仲良くする必要もないと思います。

 何の努力もせずに関係を壊すのも大人げない行為ですが、世の中には言っても分からない輩もいると思うのです。

 これだけ、色々な事で、勝手気ままに振舞う隣国は、隣国であっても友人とは思えないですね。

 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百二十七段 〔原文〕

 改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『  改めても益がないことは、改めない事を良しとする。』

 

 

『維持』

 確かに物事には、維持する方が良い場合があります。

 例えば『不易流行』のように、変えていい場合、変えなければならない場合、そして維持した方が良い場合と、状況により考えさせられる場面に遭遇します。

 ただ、ここに書かれてあるように、改めて益がないと、考えるのは何故でしょうか。改めると言う衝動があると言う事は、現状に不具合、あるいは不備、また不都合な事があるから、改めたいと思ったのでしょう。

 もちろん、現状維持は衰退と同じであると、経済を中心に考えている人が多いと思いますが、これも時代で右肩上がりが永久に続くものではない事は、日本人もバブル崩壊という事を経験していますから、分かっているはずなのですが、未だに右肩上がりを熱望している人もいるようです。

  右肩上がりは、発展途上国の現象である事を、見直してみればどうでしょう。

 ある程度の段階まで来ると、成熟と言う事があります。そして、衰退する事もあるのが、『諸行無常』の世界だと思います。

 この段にある、『改めて益なきこと』は、いつ分かるのでしょう。改めて見ないと判らない場合もあります。もちろん、考えても分かる事、わざわざ有益な事でないと、初めから判断できる事は、やる必要はないかも知れません。

 しかし、これも人間ですから、やって見ると思わぬ効果が現れるかも知れないじゃないですか。

 私なら、一度はやって見て、そして有益でなければ、また方向転換すれば良いと思う方です。試行錯誤を繰り返して、有益にすれば良いと思います。

 もちろん、やる前から分かっている愚を犯す必要のない事は、やらない方が良いと思います。

 しかし、この賢愚も、誰にとって賢なのか、愚なのかも吟味する必要がありそうです。

 意外と、一部の人にとって有益で、大部分の人にとっては、無益以上の不利益を被る事になるかも知れません。

 経済的にも精神的にも、完全に平等になる事は無いかも知れません。ですからどの国、どの政策、どのような主義であっても格差ができるのでしょう。

 特に個人個人の意見を尊重すればするほど、格差は広がるでしょう。また、個人の要望が格差に結びつく事も考えられます。

 個人個人の意見と書きましたが、人それぞれ望む方向も望む事も、全く違うのが世の中です。ですから、右と左に望む方向が分かれれば、どちらか一方に不利益が生じるのは、ごくごく自然の成り行きです。

 均衡が取れていれば、問題がないかと言うと、均衡が取れている時に、双方とも欲が増大するのが、人間の愚かさなのでしょう。

 人間が、ほどほどに欲を満たす事ができれば、良いのですが、現在の社会を見ていると、そうでもなさそうです。

 一国の予算に匹敵するほどの財産を蓄えて、どこに行こうとしているのでしょう。私にはチンプンカンプンで解りません。

 ここでは、改めるべきか維持するべきか、を途中まで書いていましたが、どうも脱線してしまったようです。

 原因は、誰のために改めるのか、誰のために維持するのか、を考えた時に、その目的が欲にあるからと思ったからです。

 個人の問題としてこの段を理解しようとすると、個人的な見解になり、私なら、一度は改めて様子を見るでしょう。

 しかし、これが社会で行われようとする場合は、やはり、誰のために、と言う事を深く考えないと、一部の人の思惑に動いてしまうと思うのです。