今日の文字は『両刃りょうば 』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百二十五段』を読んで見て、感じた文字です。
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両刃
★『安倍首相「経済活性化の起爆剤」=大阪万博開催』
(時事通信社 2018/11/24 01:54)
「安倍晋三首相は24日未明、2025年国際博覧会の大阪開催が決まったことを受け、「大変うれしく思う」と歓迎するコメントを発表した。「素晴らしい万博を実現するため、引き続き、大阪・関西の皆さまをはじめ、オールジャパンの体制で、全力で取り組んでいく」と強調。「日本の魅力を世界に発信する絶好の機会でもある。わが国を訪れる観光客が増大し、地域経済が活性化する『起爆剤』になると確信している」とした。」
前に大阪で万博があったのが1970年といいますから、今から48年前になります。
私は、東京にいましたが、帰郷し家族で万博を見に行った記憶が薄っすら残っています。
その時の万博会場で、日本空手道致道会のメンバーは、笹川静江さんの詩吟に合わせて、空手の型の演武を披露したと思います。事情があり残念ながら私はそのメンバーには入りませんでした。
岡本太郎画伯の太陽の塔が有名でした。前の万博を契機に周りの交通網が発達した記憶はありますが、それ以外の印象は今はもうなくなってしまいました。半世紀ですから、当然ですかね。
さて、今回の万博は、経済の起爆剤と言う発想から、原点に戻って、日本の文化、科学を世界に発信する機会になればと思います。
世界から見ると、日本はまだまだよく知られていないような気がします。
さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。
徒然草 第百二十五段 〔原文〕
人に後れて、四十九日の佛事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくして皆人涙を流しけり。導師かへりて後、聽聞の人ども、「いつよりも、殊に今日は尊くおぼえ侍りつる」と感じあへりし返り事に、ある者の曰く、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなむ上は」と言ひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。さる導師のほめやうやはあるべき。
また「人に酒勸むるとて、おのれまづたべて人に強ひ奉らんとするは、劒にて人を斬らむとするに似たる事なり。二方に刃つきたるものなれば、もたぐる時、まづ我が頚を斬るゆゑに、人をばえ斬らぬなり。おのれまづ醉ひて臥しなば、人はよも召さじ」と申しき。劒にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。
『現代文』
まず、我流で現代文にしてみましょう。
『 人に先立たれ、四十九日の法事に、ある高僧を招いたところ、説教が素晴らしく、皆涙を流した。導師が帰った後、聴聞の人達「いつもより殊更に今日は尊く感じた」と感じ入ったところ、ある者が「なんと言うか、あれほど、唐の犬に似ているのだから」と言うと、しみじみとした気持ちも醒めて、可笑しくなった。このような適当な導師の褒め方があるのか。
また、「人に酒を勧めるにも、自分が真っ先に飲んでから人に強いるのは、剣つるぎ で人を斬ろうとするのに似ている。両刃の剣つるぎ であれば振りかぶる時、先に自分の首を斬ってしまうので、人を斬る事ができない。自分が先に酔って寝てしまい、人はいくら何でも飲まない」と言っていた。剣にて斬り試した事があるのか、とても可笑しかった。』
『両刃』
これは、ただ面白い話を二つ披露したと思います。『また』 、と話を繋げていますが、全く内容に繋がりを感じません。
ある徒然草を現代文にしてインターネット上に公開している人が、「剣は必ず諸刃ではるわけではない」 と書かれていました。
今では剣つるぎ は、両刃の事を言うと思います。刀と太刀は片刃を言い、それぞれに使い方が違います。刀と太刀の中間の物もありますが、この半太刀と言うものは見た事がありません。
この段の原文にも『二方に刃つきたるものなれば』 と剣つるぎ についての説明がされているので、ここでは両刃と限られています。
ただ、宮本武蔵のような兵法者であっても、五輪書の中で、太刀と刀を混同した書き方をしていますので、当時は、剣つるぎ も太刀も刀も、呼び名に拘りが無かったのかも知れません。今でも竹刀を使っているのに、剣道と言いますし、剣術とも言いますから、あまり厳密に言わないのかも知れません。
剣つるぎ の話は兎も角として、刀であっても太刀であっても、相手を斬ったり刺したりする道具ですから、扱い方さえ間違えなければ、自分自身を傷つける事はありません。もちろん扱いに慣れていなければ、足を斬ったり、指を切ったりする事は稀にあると思いますが、首を斬る事は、想像できません。
ですから、確かにこの剣つるぎ の話を持ち出した人は、剣つるぎ も刀も使った事は無いでしょう。
しかし、私が感じるのは、兼好法師の引用の仕方も、五十歩百歩だといつも思っています。
この話も笑い話にしては、何が可笑しいのか分かりません。
仮に冒頭の話を第一話としましょう。確かに場違いな事を突然いう、KY(空気読めない)な人は居ますが、そんな人の話を聞いて、可笑しいと思うでしょうか。私なら非常識と、その人を馬鹿にするかも知れません。しかも、どうとらえれば、『あれほど唐の狗に似候ひなむ上は』 と中国の犬に似ていると言った事で座が白けるのは解りますが、なぜそれが導師を褒める事になるのでしょう。まったくもって理解に苦しみます。
前にも書きましたが、「唐」と中国の事を言っていますが、本当に鎌倉時代には、『元』の事を『唐』と言ったのでしょうか。いつか調べて見たいと思います。
確かに私が空手を知った時には、一般的にはまだ『唐手』と言っていた事が思い出されます。
第二話では、引用した剣つるぎ が話しをややこしくしているようですが、話しの内容は、そこに相手が言いたかったことがあったとは思えません。
その剣つるぎ を引用した人は、人に酒を勧めるなら、まず相手に勧めるのが礼儀だろう、自分が先に飲んでから勧めるものではない。と、言っているのだと思います。まして、飲み過ぎて寝てしまうような人は、人と酒を酌み交わす資格がない。
そんな事を言いたかったのだと思うのですが、私がこの話を聞いたら、引用する物が違うだろうとは思いますが、内容は頷けます。
私からすると、これまでの徒然草を読んで、兼好法師の引用の仕方は、この剣つるぎ を引用した人と同様の引用の仕方と思うところがありました。
であれば、人の事を言う資格はない、と兼好法師に言いたいところです。
この引用の仕方も、読み方によっては、引用らしさも出来ます。酒は、確かに場を盛り上げて、楽しく歓談する脇役としては最適かも知れませんが、飲み過ぎると、自分勝手に振舞ったり、喧嘩の基になる場合もあります。
ほどほどにしないと、酒は剣つるぎ のように両刃ですから、自分も酒に飲まれてしまうかも知れません 。こう書けば、引用として剣つるぎ も可笑しくはならないと思うのですが。
ただ、この引用の仕方も、時代によって引用する事が違うと思いますので、私が兼好法師の引用を、この剣つるぎ と同等に扱うと、兼好法師から反論があるかも知れません。
『唐』も『剣つるぎ 』も、もう少し詳しく調べないと、何となく心残りですが、機会があれば調べて見ますが、歴史は専門家にお任せした方が良いのかも知れません。