文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【123】

 今日の文字は『有用ゆうよう』です。必要な物です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百二十二段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 有用

 

★『慰安婦財団解散、21日にも発表=「10億円処理、日本と協議」-韓国メディア』
(時事通信社 2018/11/20 23:07)
「【ソウル時事】聯合ニュースなど複数の韓国メディアは20日、女性家族省が21日にも、元慰安婦らの支援事業を日韓政府間合意に基づいて行ってきた「和解・癒やし財団」の解散方針決定を発表すると報じた。

 日本政府は「合意の着実な実施が重要であり、現段階では解散はあり得ない」という立場。解散方針が発表されれば、反発を強めるのは必至だ。

 聯合などによると、韓国政府は財団解散のための法的手続きに6カ月から1年かかるとみている。この間、日本政府が財団に出資した10億円の処理に関し、日本側と協議する計画という。ただ、合意の履行を重視する日本側は、協議に応じないとみられる。

 文在寅大統領は9月、ニューヨークで安倍晋三首相と会談した際、「合意を破棄しない。再交渉も求めない」と改めて表明する一方、「財団は元慰安婦や国民の反対で正常な機能を果たすことができず、解散を要求する声が強い」と指摘した。」

 この見出しを見た時、やっと慰安婦問題も解決か、と思って内容を見ると、まったく逆の現象が起こっています。

 韓国や北朝鮮は、隣国でありながら、話しが通じない国と言う印象が強すぎます。言葉の違いもあるのかも知れませんが、言葉だけではない、何か違うようなイメージです。主義主張が違うと言うのは、こう言う事を言うのかも知れません。

 正義の意味に、これほど隔たりがあると、民主主義的に解決を見る事も難しいのではないかと危惧します。

 民主主義は、どれだれ意見の違いがあっても、多数決と言う手段で最終結論を出し、そして一旦結論が出れば、ノーサイドと言うのが信条と思われますが、これだけ、決定された事にいつまでも、その決定を覆そうと、手をかえ品をかえ行動するエネルギーはどこから沸き起こるのでしょう。このエネルギーを自国の発展のために使えば良いのに、と思ってしまいます。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百二十二段 〔原文〕

 人の才能は、文明らかにして、聖の教へを知れるを第一とす。次には手かく事、旨とする事はなくとも、これを習ふべし。學問に便りあらむ爲なり。次に醫術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝のつとめも、醫にあらずばあるべからず。次に弓射、馬に乘る事、六藝に出せり。必ずこれを窺ふべし。文・武・醫の道、まことに缺けてはあるべからず。これを學ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食は人の天なり。よく味ひをとゝのへ知れる人、大きなる徳とすべし。次に、細工、よろづの要多し。

 この外の事ども、多能は君子のはづるところなり。詩歌にたくみに、絲竹いとたけに妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすとはいへども、今の世には、これをもちて世を治むること、漸く愚かなるに似たり。こがねはすぐれたれども、くろがねの益多きに如かざるがごとし。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『 人の才能は、書物をよく読み、聖の教えを知る事が第一である。
 次に文字を書く事、書家でなくても、習うべきである。学問をする上の拠り所となる。
 次に医術を学ぶと良い。身体を養い、人を助け、忠孝の務めにも医なくしては成り立たない。
 次に、弓、乗馬は六芸に出ている。必ずこれをひととおり知っておく。
 文・武・医の道、本当に欠けてはならないものである。これを学ぼうとする事を、無駄な事をする人と言ってはならない。
 次に食は最上である。上手に作る人は大きな徳とすべきである。
 次に細工、万事に有用である。

 これ以外で、多能である事は、君子としては恥ずかしい。漢詩や和歌を作るのが上手で、管弦にすぐれているのは、優雅な深い味わいの道であり、君臣ともにこれを重んじるが、今の世の中は、これで政治を行う事は、次第に
愚かになってきた。

  金は優れているが、鉄の有用さに及ばないのと同じことだ。』

 

 

『有用』

 有用と言う言葉を選んで書きましたが、役立つ事は、時代時代で違うのでしょう。

 論語の中の、君子と言うものは、「詩・楽・礼」を基礎としていますが、それを、兼好法師は、そんなもので政治は遂行できないと言っているような気がします。

 兼好法師の時代は、鎌倉時代の末期ですから、まさに政治が混とんとした状態で、政治も綺麗ごとでは済まされなかったのでしょう。

 この中で面白い表現は、『多能は君子のはづるところなり。』で、別に恥じなくても良いじゃないか、と思ってしまいます。

 しかし、兼好法師が言った多能とは、『詩歌にたくみに、絲竹いとたけに妙なるは、幽玄の道、』と原文にあるように、漢詩や和歌を作るのが上手で、楽器の上手く扱える人の事を言っています。孔子の言う『詩・楽』にあたります。

 私は、この二人の考え方のどちらを取るかと言うと、孔子に軍配を揚げたいと思う方です。

 その理由は、君子たるもの、と言う特別な存在であればと言う限定された人については、特に人の痛みが解る人であって欲しいと思うからです。

 兼好法師が挙げている「文・武・医・食・細工」、もう少し平たく言い換えると、学問、武術に勤しみ、医療に深い造詣があり、料理が出来、手が器用である事が、君子の条件になるのかと言うと、有用ではあっても、必須の条件では無いと思っています。

 これは、あくまでも自分が生きて来た人生を振り返って思う事ですが、有用な事が出来ても、『器用貧乏』に過ぎないと思っています。人の役には立ちますが、君子の条件ではないと思っています。

 君子と言うのは、あくまでも人の上に立つ人と言う意味で理解しています。また、辞書にあるように、徳が高く品位のある人、あるいは人格者、であっても、同じ事が言えると思います。

 人を統率する能力と言うのは、単に物事に精通しているとか、出来るだけではないと思っています。学問に精通していなくても、手先が器用でなくても、武術に長けていなくても、医療に造詣がなくても、人心を束ねる人はいます。

 ただ、『詩・楽』が君子の条件である能力を高めてくれたり、その能力を作ってくれるとは思っていません。

 兼好法師は、こがねはすぐれたれども、くろがねの益多きに如かざるがごとし。』と、『詩・楽』を金に譬えていますが、如何に優れているかは明言していません。

 私は、人心を束ねる能力は、総合的な魅力だと思っています。それぞれ有用な物を別々にして、無用と思われる物を切り離して考えた時に、まったく違った物を創造してしまうと思います。有用、無用を、総合的に組み合わせた能力の、バランスだと思っています。

 ですから、たとえ不器用であっても、他の物が優れていれば、人から見れば魅力があると思われます。他の有用なものでも同じです。しかし、全く有用な物が無ければ、人は振りむいてもくれないでしょう。

 もちろん、『詩・楽』に長けていたとしても、他に人を惹きつける魅力に欠ける人は、君子であるべきではありません。

 現在で言えば、良い大学を出て官僚になった人は、学問は一流でも、それだけで人格者とは判定できません。そして魅力のある人とも断定する事ができません。

 これは、あらゆる分野に共通しています。すばらしい詩を書く人が、人格者と言えるでしょうか。

 アーティストと言われている、歌手や楽器の演奏者が、その卓越した技能を披露することで、人を惹きつけるでしょうが、果たしてそれが人間としての魅力に結びつくのでしょうか。

 これは、絵を描く人も、書道で文字を書く人も、他の色々なモノ造りが出来る人も同じです。その作品には人を魅了する力がありますが、それがそのままその人の評価に結びつくものではありません。

 武道をやっている人でも同じです。空手道を例に上げますが、型を上手に演ずる人、競技に勝った人は、人間としての魅力が備わっていると言えるのでしょうか。強さは、人に憧れを抱かせますが、人心を掌握するには至りません。

 ですから、私は文武両道の為にこのブログを書いています。私の言う文武両道は、現在では学問が出来てスポーツに秀でている人を言うようですが、私の考える文武とは少し違います。武は、空手道ですが、文は、学問の事を言っているのではありません。簡単に言うと、考える事ができる事です。

 考えると言う事が出来る。すなわち思考と言うものは、まず言葉無くしては考えようがありません。ですから、文字や語彙は絶対条件になります。しかし、これでも私の言う『文』にはなりません。

 私が考える『文』は、ただ考える事ができるようになるだけではなく、感じる事ができるようになる事だと思っています。ですから、出来上がったものが優れているからと言って、それは私が考える『文』ではありません。

 もっともっと、簡単な事で良いと思っています。綺麗な花を見て、『美しい』と思う気持ち、澄み切った山々を見て、『清々しい』と思う気持ち、可愛い動物を見て『可愛い』と思う気持ち、何かしてもらって『ありがとう』と思う気持ち、色々な場面に遭遇した時素直になれる気持ち。そんな気持ちを大切にしたいと思っています。

 丁度「禅問答」のように、 感じた瞬間心が動かされるようにです。

 そんな素直な気持ちが、『礼』に適した方法で表現できるような人が、魅力のある人ではないかと思うようになっています。そして、そんな人が君子と呼べる人格者ではないかとも、思っています。

 その素直な気持ちは、決して自己中心的な素直さではなく、生まれたままの素直な気持ち、自分を守るために得た、知識や処世術を全て棄て去る事で、この生まれたままの素直な気持ちが甦ると思っています。

 けっして、現在よく言われているような、『ありのまま』で良いのではなく、本来の自分をむき出しにした時、初めて現れる本当の自分の素直な気持ちです。 私はこれを『髓心』と言っています。  
 
 こんな心を持っている人は、必ず人の痛みが解る人であると思います。そして、こんな人が、人の上に立ち、君子と呼ばれて欲しいと願っています。