今日の文字は『安堵』です。安心すると言う意味で、今は余り使われない古い言葉です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百九段』を読んで見て、感じた文字です。
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安堵
★『倉本聰氏が全国のテレビマンたちに喝「『作』ではなく『創』をしなければ前進はない!」』
(スポーツ報知/報知新聞社 2018/11/07 17:15)
『脚本家の倉本聰氏(83)が7日、都内で行われた第66回民間放送全国大会で記念講演を行った。
国民的ドラマシリーズ「北の国から」などで知られ、来年放送のテレビ朝日系ドラマ「やすらぎの刻~道」の脚本も執筆している倉本氏は「テレビはどこへ行くのですか?」と題した講演で熱弁を振るった。
「映像が4Kになっても、映像そのものの中身の質は落ちている。電器メーカーが得しただけ。なぜテレビ局はもうけた金をテレビ番組に還元できなかったのか」
「米国と違って日本では演技経験のないミュージシャンなどのド素人がいきなりドラマに主演したりする。これはプロの役者としては屈辱的なことなんです」——後略——』
脚本家の大御所が言うのだから、間違いはないのかも知れません。しかし、私は少し違う見方をしています。
ドラマと言うのは、一つの文化だと思っています。映画や芝居と同じ土俵で見ると違うのかなと思ってしまいます。
『演技経験のないミュージシャンなどのド素人』と書かれてありますが、私から見ると、よく経験もなく、セリフを覚えて自然に役をこなしている、と感心する方が多いです。
もちろん、中には、可愛いだけ、綺麗なだけ、背が高いだけ、顔が良いだけの人もいる事はいます。だからといって、『ド素人』と言えるのでしょうか。
もし、『ド素人』のまま放映しているのであれば、それは役者さんだけではなく、スタッフや特に演出家や監督の責任だと思います。
私は、ドラマをよく見ますが、一番『ド素人』に見えるのは、舞台俳優の演技です。特に歌舞伎や一流の演劇のベテランは、余りにもドラマに馴染まなく、彼ら彼女らは、違う土俵と言う事を認識せずに、演じているように思います。
舞台では、一つの世界観をその舞台で作り上げ、そして観客も共通の空気の中で一体となって、役者がその役割を果たすと思っています。ですから、その舞台は、 日常とは違う世界を作り出しています。
でなければ、歌舞伎や宝塚歌劇なんて成立しないと思います。その日常と違う事を求めて、観客は足を運んでいる事を、当事者が忘れてどうしようというのでしょう。
テレビドラマも、非日常と言えばそうですが、あくまでも、日常に近く演じる事で視聴者を引き付けるのだと思います。
テレビドラマでも、落語家や漫才など、お笑いの人が良い演技を見せています。しかし、舞台で相当知名度の高い人に限って、場に則さない、浮いてしまうような演技を見せています。
その浮いてしまっている、ベテランの役者さんの声が聞こえて来そうです。『こんな下手くそな人たちと一緒にドラマを作りたくない』と。
個人的には、演じているようでも、それを見せないように演じている、今のドラマが大好きです。
さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。
徒然草 第百九段 〔原文〕
高名の木のぼりといひし男、人を掟てて、高き木にのぼせて梢を切らせしに、いと危く見えしほどはいふこともなくて、降るゝ時に、軒長ばかりになりて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候。目くるめき、枝危きほどは、おのれが恐れ侍れば申さず。あやまちは、安き所になりて、必ず仕ることに候」といふ。
あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、かたき所を蹴出して後、やすくおもへば、必ず落つと侍るやらむ。