文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【107】

 今日の文字は『罵倒ばとう』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百六段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 罵倒

 
★ 『若者にアピール、学園祭行脚=参院選視野、安倍首相母校にも-枝野氏』
(時事通信社 2018/11/04 17:15)

「———前略——-憲法改正に関する質問に対しては、安倍晋三首相を念頭に「憲法は権力者を縛るためのルールで、国家の理想を書く話ではない。ちゃんと勉強していない政治家が語るのが憲法と教育だ」と答えた。——-後略——」

 東日本大震災の時の枝野幸男氏、毎日のように、不眠不休でテレビにでて、理路整然と語る姿を頼もしく見ていた一人です。

 残念ながら、話し上手なのですね。話のすり替えが非常にうまい。政治家はみんな概ねそんな感じがしますが、彼は、話しが上手いだけに、余計にそんな風に思います。
 
 「憲法は権力者を縛るためのルールで、」と限定してしまうと、憲法がおかしくなると思います。もう少し、多義的な意味合いで作られていると思います。ですから、憲法学者によっても捉え方が違うのでしょう。

 為政者だけのルールではなく、国民の権利義務や、「国」の成り立ちから、政府の在り方や目的なども書かれていると理解しています。もっともっといろいろ多岐に渡って、他の法律の基礎となる部分が書かれていると思っています。しかも、権力者の定義も定かではないのに、どうして権力者を縛れるのでしょう。

 国家の理想が書かれていない憲法なんてあるのでしょうか。少なくとも国の根本秩序に関する法規範である憲法に、国家が目指す理想が掲げてなくて、どうしようというのでしょう。

 理想と言う言葉を絵に描いた餅と理解するなら解りますが、私は理想は夢とは違うと思います。国民が描く最善の方向だと思うのですが・・・・。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百六段 〔原文〕

 高野の證空上人、京へ上りけるに、細道にて、馬に乘りたる女の行きあひたりけるが、口引きける男、あしく引きて、聖の馬を堀へ落してけり。

 聖、いと腹あしく咎めて、「こは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀に蹴入れさする、未曾有の惡行なり」といはれければ、口引きの男、「いかに仰せらるゝやらん、えこそ聞き知らね」といふに、上人なほいきまきて、「何といふぞ。非修ひしゅ非學の男」とあらゝかに言ひて、きはまりなき放言しつと思ひける氣色にて、馬引きかへして逃げられにけり。

 尊かりけるいさかいなるべし。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『高野山の証空上人が京に上る時に、細い道で女性を乗せた馬とすれ違った。馬を曳いていた男が失敗して、馬を堀に落としてしまった。

 高野山の聖は、心底強く責めて「これはとんでもない悪い行いである。仏の四種の弟子の中で、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。このように優婆夷の身で、比丘を堀へ蹴落とすとは、未曾有の悪行である。」と言われたが、馬を引いていた男は、「何を仰っているのか理解できません」と言えば、上人尚声を荒げて、「何を言うか、仏道の修行も学問もしない男が」と荒々しく言ったが、とんでもなく思ったことをそのまま言い散らしてしまったと気付いた様子で、馬を元来た方向に戻して逃げて行かれた。

 尊い叱責であったろう。

 

 

『罵倒』

 この話は、実話かも知れません。時代が過ぎて、松尾芭蕉『笈の小文』の中で、徒然草の、この聖を思い出すと言っています。
(出典:http://koten.kaisetsuvoice.com/Kobumi/Kobumi10.html)

 大体僧侶とかひじりとかの言葉を聞くと、出来た人、偉い人を勝手にイメージしてしまいます。しかし、この徒然草に出てくる、僧侶や法師には、ろくな人が登場しません。

 しかし、自分の若い頃を思い出すと、そういえば、そんな事もあったなぁ、と思い出しました。

 しかも、度々あったと思います。特に学生時代は、すぐにカッとなる性格で、言いすぎる傾向は、このひじりを軽蔑などできるものではありませんでした。

 相手をののしっている間に、気が付くのですが、怒り狂った感情の収めどころが分らず、よせば良いのに、相手を完膚なきまでにやっつけました。で、このひじりと同じように、後で反省するのですが、後の祭りです。

 なぜ、後悔するようになるのかと、後で分析してみますと、理路整然と罵る事は、まず無いと思います。感情が高ぶっていますから、頭が回らないのでしょう。ですから、相手を完膚なきまでにやっつけているように感じるのは、理論的にではなく、感情的に威圧しているだけだと思っています。

 この文章でも、聖が相手を罵倒している内容が、実に面白いです。本人は、『・・・仏の四種の弟子の中で、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。このように優婆夷の身で、・・・』と、一見理論的には見えますが、これと馬を堀に落とした事との因果関係がありません。

 ようするに、詭弁を弄して、相手を罵倒しています。ですから、馬を引いている男は、『さっぱり解らん』となるのでしょう。

 私も、徐々に感情をコントロール出来るようになってきましたが、それでも、根が短気なのでしょうか、コントロール出来ないような感情に見舞われる事があります。

 私は、道場で教えるようになってからですが、自分で感情をコントロールする方法を見付けました。

 変な表現ですが、怒っている時には、怒らない。すなわち、感情的になっている時は、怒らない。これに徹する事にしました。

 指導と言う名の本に、 人間は自分の行動を正当化しようとする、と思ったのです。しかし、人間ですから、感情的になる事も、ままあります。そんな時は、この方法が効果的です。

 怒っている時、感情的になっている時は、指導なんて出来る訳もありません。ですから、その時は見て見ぬふりをします。指摘する機会を放棄してでも、その場をやり過ごします。チャンスはまた来るのです。

 そして、感情が収まって、しばらく経ってから、指導するようにします。意外と効果があります。

 これが、指導ではなく、相手との諍いの場合はどうでしょう。売り言葉に買い言葉、言葉の上で勝とうと思ってしまいます。

 もし、これが感情的になっていない場合は、相手の話をじっくり聞いて、妥当だと思ったら、相手に勝ってもらえば良いのです。
 何も自分が勝つ必要もありません。デベートで勝ち負けを競っている分けではありません。

 少なくとも、議論は、テーマごとに、最良の結果を導き出すために討議しているのですから、自分が勝っても意味がありません。導き出した結果が重要なのです。

 ところが感情的になっていると、何が何でも勝たなければならないというロジックに嵌り込んでしまいます。

 では、この議論の時に感情的になってしまった場合は、どうすれば良いのでしょう。私は、こう言う場合は、ただただ、発言を控えます。口を閉ざすようにしています。慣れるまで、これは苦痛です。根っからのお喋りですから、無口な訳ではありませんから、苦行に等しい行為です。

 それでも、感情が収まるまで、じっと我慢して聞いていると、相手の言いたい事がよく分かってきます。

 相手の言い分が聞ければ、反論するにも感情的ではなく、理論的になります。相手が感情的にならなければ、議論する事ができると思います。

 それでは、相手が感情的になっている時は、どうすれば良いのでしょう。
 
 私は、言い方に強い拘りを持っています。ですから、非礼であったり、頭ごなしに言われるのが我慢できません。

 そんな時は、その場から立ち去ります。逃げたと思われても構いません。何もこんな非礼な人と、真面目に話する必要もありませんから。