文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【100】

 今日の文字は『骨董こっとう』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第九十九段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 骨董

 
 昨日は、お習字をしていました。半切(34.5cm×136cm)に、漢詩14文字を書いていたのですが、上手く行かず、結局一日中書く事になりました。

 それでも、清書は出来ずに、今朝朝から書いていましたが、まだ完成には至っていません。

 前に購入した『良寛』と言う筆を使っていますが、それでもだめです。いや~難しい。

 そうそう、今日は、『文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。』100回目です。記念すべき日ですが、何もありません。特に変わった一日でもなさそうです。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第九十九段 〔原文〕

 堀河の相國は、美男のたのしき人にて、その事となく過差を好み給ひけり。御子 基俊もととし卿を大理だいりになして、廳務ちょうむを行はれけるに、廳屋の唐櫃見苦しとて、めでたく作り改めらるべきよし仰せられけるに、この唐櫃からとは、上古より傳はりて、その始めを知らず、數百年を經たり。累代の公物、古弊をもちて規模とす。たやすく改められ難きよし、故實の諸官等申しければ、その事やみにけり。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『堀河の相國は、美男で裕福だったので、普通に贅沢を促した。次男の基俊卿を大理にし、諸官庁の事務をさせた時、庁舎にあった唐櫃からとがみっともないので美しく新調するよう仰せつけられた。この唐櫃からとははるか昔から伝えられていて、いつの時代か判らないが数百年経っている。代々伝わる朝廷の器物や調度品は、古く傷んでいるのを手本としている。容易く新しくするのは難しいと言われている。模範とすべき、昔の儀式・法令・作法などの事例に詳しい多くの役人が申し上げた所、新しくすることを止められた。』

 

 

『骨董』

 唐櫃からとと言うのは、中国風の大きな箱の事で、ひつと言うのは、飯櫃めしびつと言う方が、分かり易いと思います。

 基本的には、 古い物は消滅していっても、仕方がないと思っています。確かに、古い物には、人間が歩んできた歴史があります。

 この徒然草もその一つでしょう。骨董とは言えないとは思いますが、文化や文学も変化があって、この時代に輝いているのだと思っています。

 昔の物を執拗に残すことに拘ると、反って自然の摂理に逆らう事になると思います。

 現在では、世界遺産に認められようと、あの手この手でアプローチしているようですが、日本の文化は日本で熟成され認めれば良いのであって、外国の人に認められても意味のある物とは思えません。

 これでは、ミシュランが設定した基準に認められたからと言って、右往左往している名店と言われている老舗と変わりありません。それでも、世界的に有名になると、お客さんが増えると言う事とと、まず、格付けされて、一流になった気分になれるのでしょう。

 ミシュランと言うのはタイヤメーカーですよ。ミシュランのビジネスモデルにまんまと乗せられていると思います。

 このように格付けと言うのは、一部の人によって、今や世界に広がっているのですが、骨董の世界でも同じ事が起こっています。

 創作に携わった人が、評価を受けるのは良い事だと思います。しかし、それを持っているからと、その価値が何百万円、あるいは何千万円と言われても、作った人の思いが伝わったとも思えません。単に商業主義に乗っているだけに過ぎないのではないでしょうか。

 例えば、千利休の使っていた、茶杓、三百万円でヤフオクに出ていました。茶杓って抹茶を容器からすくうためのスプーンのような物です。これが、この値段ですよ。どう思います?

 私から言わせると、竹を20cm位に切って先を曲げた、耳かきの大きいものにしか見えません。

 国宝の天目茶碗なんかは、オークションに出すと、50億円は下らないと言う人もいるくらいです。

 この段でも読み方によれば、矛盾の主張が対峙していると思っています。

 方や、壊れているから新しくしようと言う人と、壊れているからこそ値打があり、造られた年代も定かでない、誰の創作かも判らない物に価値を見出す人のどちらの主張を良しとしているのでしょう。

 兼好法師は、全くの第三者で、その良し悪しも述べていません。少なくとも個人的な見解ぐらいは、披歴しても良いと思います。奥ゆかしいのでしょうか。これは、皮肉を込めて言っています。

 ただ、兼好法師も皮肉を込めて、『堀河の相國は、美男のたのしき人にて、その事となく過差を好み給ひけり。』
 と、裕福で贅沢者と言っているように見えます。

 この冒頭の部分を否定するのであれば、引用する方法が間違っていると思います。

 壊れていても、直せばまだ使えるというなら、裕福で贅沢と言うのに対応しているので、納得できます。

 しかし、その壊れている物は、いわゆる値打のある骨董品と位置づけると、冒頭の裕福と贅沢がどこかに行ってしまって、何が言いたいのか、戸惑ってしまいます。

 そんなに価値のある大事な物であれば、宝物庫にでもしまいこんだら良さそうに、と思います。

 実際に調度品として、生活の用に足している物は、消耗品として扱う方が良いでしょう。

 確かに現在のように消費は美徳になってしまって、経済効率だけを考えるのも如何なものかと思いますが、壊れたものは直す、それでも役に立たなくなった物は、材料が使えれば他の物に作り替えても良いですし、それが出来なくなれば、捨てるか燃やして土に返せば良いと思います。

 昔は、と言うと懐古趣味になってしまいますが、戦後すぐの頃は、まだまだ、「もったいない」と言う気持ちが皆に残っていたのでしょう。

 着る物は、必ずツギハギが普通で、新しい物を買うのは、何かのイベントで贈り物をもらうとか、私の場合は、お正月には新しい衣服が用意されていました。それでも、これは裕福な家庭の場合です。

 流石に今は、壊れていたり、保存状態が悪い物の価格は下がるようですが、それでも、価値を認めています。

 「諸行無常」と言うではありませんか。特に、法師と言われているような人は、物事が移り変わり、元の姿を留めないと、認めているのではないでしょうか。その人達が、物に拘って、昔の物に哀愁を持つのは余り褒められた事ではないと思います。

 百歩譲って、美術品として、大切に扱うと言うのは、過去を知るためには理解する事ができます。しかし、資産価値にするのは、どうかと思うのですが。