文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【99】

 今日の文字は『一言芳談いちごんほうだん』です。鎌倉時代に出来た、法然など浄土宗高僧の格言集でしょう。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第九十八段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 一言芳談

 
★ 解放された、ジャーナリスト安田純平さんの話が盛り上がっていますが、それは色々な考えが許されている国で、そして時代がそれを許していると言う事を理解して、発言をしてもらいたいと思います。

 ジャーナリストだから、国会や地方の議員だから、会社を経営して莫大な資産を残したから、テレビに出て有名になったから、と言って、何でも好きな事を言っても良いとは思いません。

 もし、発言するのであれば、私など一般市民で凡人の代表のような者が、なるほどと言うような見解をしめしてもらいたいと思います。

★ 昨日NHKの『フェイクニュース』(主演:北川景子さん)を見ました。内容が盛りだくさんで、なかなか見ごたえのある番組でした。

 その中で、『表現の自由』と言う事を言っていました。北川景子さんが言ったと思うのですが「表現の自由は、権力による規制から言論を守るために作られた権利です。個人や弱者を叩くための自由じゃない、何を言ってもいいってことじゃないんです。」、その通りだと思いました。(言葉は記憶のままに書きましたので、その通りではないと思います。)

  
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第九十八段 〔原文〕

 尊き聖のい云ひ置きけることを書き付けて、一言芳談いちごんほうだんとかや名づけたる草紙を見侍りしに、心に會ひて覺えし事ども。 

一 やせまし、ずやあらましと思ふことは、おほやうは、爲ぬはよきなり。
一 後世を思はんものは、糂汰瓶じんだがめ一つも持つまじきことなり。持經ぢきゃう本尊ほぞんにいたるまで、よき物を持つ、よしなきことなり。
一 遁世者は、なきに事かけぬやうをはからひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
一 上臈は下臈になり、智者は愚者になり、徳人は貧になり、能ある人は無能になるべきなり。
一 佛道を願ふといふは、別のこと無し、暇ある身になりて、世のこと心にかけぬを、第一の道とす。

この外も、ありし事ども、覺えず。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『高徳の僧が言い残したことを書きとめて「一言芳談」と名付けられた草紙を見た時に、心を打った事。

  一、しようか、やめておこうかと考えたことは、概ねしないほうが良い。

  一、後世を願う者は、ぬかみその瓶ひとつも持ってはならない。経典から本尊に至るまで、立派なものを持つことは良くない。

  一、出家した者は、物がないことを気にかけないよう生活するのが最善の策である。

  一、年功を積んだ位階の高い人は修行年限の短い僧になり、智者は愚者に、富豪は貧困に、有能者は無能になるべきなのだ。

  一、仏道修行の道に入ると言うのは、特別なことをするのではない。暇な身の上になって、世の中のことを心にかけないようにするのが、第一の道である。

  この他にもあるが、覚えていない。』

 

 

一言芳談いちごんほうだん

 もっと為になる事もあったと思うのですが、兼好法師は、さほど重要な事ではないと、思ったような書き方です。

 兼好法師が修行者であるかどうかは兎も角としても、出家者である事には変わりがありません。

 ですから、このような格言に対しては、もう少し真摯な態度で臨むと思っていました。

 しかし、法語153条を集めた中で、これと言ったものが無かったかも知れません。この153とする説と、160余りと書かれてある事典もありますので、同じ一言芳談でも違う物があるのかも知れません。

 鎌倉時代の末期に編集されたとされていますが、定かではありません。

 内容は、教理への関心は薄く、法然の説く本願他力の思想への理解は浅いとするものも見れますので、書かれてあることは、重要なものではなかったのでしょう。

 一遁世者によって編纂されたと言うだけで、誰かも分かっていない模様です。

 しかし、兼好法師が心に響いた言葉を挙げたのですから、無視する訳にもいかないので、一つづ解明していこう思います。

  一、しようか、やめておこうかと考えたことは、概ねしないほうが良い。

 私の考えでは、全く反対です。どちらか迷った時には、一度はやって見る方が良いと思っています。
 元来、怠惰な性格ですから、しない方が良いと決めていると、絶対しないと思います。迷う前にしないと思います。
 失敗しても良いから、やって見る事にしています。失敗は成功の基と言うじゃないですか。
 世の中、引っ込み思案では、前に進めません。ポジティブシンキング分かった顔をして、大人ぶらない事が信条です。 

  一、後世を願う者は、ぬかみその瓶ひとつも持ってはならない。経典から本尊に至るまで、立派なものを持つことは良くない。

 まず、後世を望んではいません。世の中は、現在が全てと思っています。投げやりな気持ちではなく、 極楽浄土を希望していません。

 理由は、屁理屈、詭弁を並べ立てて、言いますと、極楽に言った人の話も聞けませんし、地獄を体験した事も聞いた事はありません。生きながら地獄を体験した人の話は聞けますが、死んだ後の話は、伝わってきません。

 また、輪廻転生と言う事も、たとえあるとしても、誰も前に生きていた事、死んでからどうなったとかの記憶もありません。ですから、無いのと同じです。私などは、現生における記憶も不確かです。

 人間は、記憶があるから生きているのであって、記憶が無くなった時点で、もし生きているとしてら、それからの人生です。
 生きていても、物に執着したりすると、精神的にも良くないと思っていますので、生きている時に、物に固執しないように心がけています。

 父親がよく、「なけりゃ、無いでええ」と言っていました。

  一、出家した者は、物がないことを気にかけないよう生活するのが最善の策である。

 私は、出家は世の中から逃げる事で、決して人生を全うする事でも、修行でもないと思っています。これは、宗教心の欠片もないから、当然と言えば当然ですが、人生は全うするためにあると思っています。

 ですから、辛くても、苦しくても、理不尽な世の中でも、死を迎えるまでは、自分の人生を生き抜く事を考えています。それが人間の宿命ではないのでしょうか。

 自殺なんてとんでもないと思っています。人間は一度きりの人生を歩みます。ですから、自分から放棄するなんてとんでもない事です。そんな事をしなくても、死は必ずやって来るのですから。

  一、年功を積んだ位階の高い人は修行年限の短い僧になり、智者は愚者に、富豪は貧困に、有能者は無能になるべきなのだ。

 何も人生の大半を掛けて、得たものを捨てる必要はありません。ただ、何を得ても、必ず捨てなければならないのが、死であり、これだけは、誰にも変わらず、生まれた時から約束されているのですから、そう焦って、無くす必要はないと考えています。

 偉いお坊さんは、偉い儘、死ねば良いのです。智者と呼ばれるような偉い人も同じです。
 折角蓄えた蓄財も捨てる必要はありません。ただ、何も持って死ぬことは出来ないのですから、使い道には気を配る必要がありそうです。持っている人の苦労の一つだと思います。
 有能な人が、わざわざ無能になる必要も感じません。私は有能とは言えないですが、これ以上無能になる必要もないでしょう。

  一、仏道修行の道に入ると言うのは、特別なことをするのではない。暇な身の上になって、世の中のことを心にかけないようにするのが、第一の道である。

 仏道に限らず、専門的に見える事でも、やってみると、特殊な事をする分けでは無いと言う事が分かってきます。外部から見れば、特殊と見える事でも、特殊な事を長年やっていると、それが当たり前になります。それが身に付くと言う事です。

 私は、今、暇な時間を過ごしているように見えますが、自分なりに忙しくしています。理由は、このブログとお習字、そして空手の稽古です。空手は兎も角、お習字も少し分かるようになった気がしています。

 一番良かったのは、このブログを書く事です。まず、文章を書く事に慣れていないので、かなり頭を使います。そして、解らないことだらけなので、調べて、『あっ、そうか』と言う事が随分増えました。

 これは、ブログを書くように勧めてくれた、長男に感謝しなくてはなりません。

 上手か下手かは分かりませんが、『下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる』で文章も、少し上手くなったかも知れません。

 なんせ、毎日、最低2000文字、多い日は4000文字を越えますから、はっきりとはしませんが、一日2500文字としても、投稿文が457ですから、1,142,500文字です。

 なんと、400字詰め原稿用紙にすると、2,856枚を超えています。塵も積もれば・・・ですね。

 時には、一日8時間以上もかかってブログを書いている事があります。

 ただ、世の中のことを考えて、くよくよしないようには、していますが、結構、このブログでも愚痴をいっています。まだまだですなぁ・・・・。