文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【96】

 今日の文字は『俗習ぞくしゅう』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第九十五段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 俗習

 
 今朝は、お習字から始めました。理由は、巻き藁を突いた後で、筆を持つと、しばらくすると手が震えて書けなくなるからです。

 軽く突いているつもりでも、結構な負荷と言う事ですね。

 しかし、2時間ほどして、めまいがしてきました。昨夜は1度しか起きなかったのですが、寝不足ですかね。

 それで、お習字を止めて、台風の状況を確認しましたが、今回は日本には立ち寄らないような感じに見えました。と、気象予報士でもないので分かりませんが。

★ 昨日のテレビニュースで、シリアで反政府武装勢力に拘束されていた、安田純平さんが解放されたようですが、ジャーナリストの行動は、この人だけではなく、国内での取材のやり方にも疑問を感じます。

 今回は解放されて良かったとは思いますが、ジャーナリストの使命感を聞いていますと、果たして正しい選択なのかと、疑問に思う事もしばしばです。

 少なくとも、視聴者のためであるとか、読者のためと、責任を転嫁することだけは、やめて頂きたいと思います。

 もちろん、ジャーナリストの情報を待ちに待っている人もいると思いますが、私は情報自体が危ういものだと思う事があります。情報は、操作できると言う事をいやと言うほど日本人は体験しているはずです。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第九十五段 〔原文〕

 「箱のくりかたに緒を著くる事、いづ方につけ侍るべきぞ」と、ある有職の人に尋ね申し侍りしかば、「軸に付け、表紙につくること、兩説なれば、何れも難なし。文の箱は、多くは右につく。手箱には軸につくるも常のことなり」と仰せられき。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『「箱に開けた穴に紐を取り付けるのは、箱のどちらに付けるべきか」と、よく知っている人に尋ねたら、「左右どちらにも説があるので、どちらでも問題はない。文箱の多くは右側に、手箱は左に付けるのが一般的である。」と仰った。』

 

 

『俗習』

 ここでは、『軸に付け、表紙につくること、』と言う事を調べようと思ったのですが、意味を解する事は出来ませんでした。

 ですから、この左右と言うのは、『徒然草 現代語訳つき朗読』(http://roudokus.com/tsurezure/095.html)を参照しました。

 ただ、左右と言うのも、箱をどこから見て右なのか、左なのかも分かりません。

 文箱は持っていますが、紐は付いていませんし、穴も開いていません。手箱は現在は所有していません。

 と、箱の事はさておいて、と書くと『おい、おい』と聞こえそうですが、私も調べようがありませんので、あしからず。

 ここで、『俗習』と題名を書きましたが、前回の慣習や仕来りと同じ意味です。便宜上俗習としました。風習であっても習慣であっても構いません。ただ同じ言葉を書いても面白くないと思い、気ままにこの文字を選んだだけで、意味はありません。

 世の中には、「なんで?」と言う事があると思いませんか。

 例えば、着物は左前で衿を重ねます。でも洋服は、男女が逆です。外国映画で、よく右前の着物を着ているのを見ると、すかさず「違うだろ!」って言ってしまいます。

 やっぱり着物は左前だと思っていますが、根拠が見当たりません。子供の頃ですが、前の人の右手が入りにくいので、財布を取れられない、と聞いたことがありますが、今考えると、どうも根拠としては説得力に欠ける説明のような気がします。

 俗習の中には、その小さな地域の風習で、それなりの根拠があるものもあると思いますが、考えても分からない物もあります。

 神事や仏事では、その中で仕来りや決まりごとがありますが、それは、一般の人には、「なんで?」であっても、守らないといけないのでしょう。

 例えば、神社にお参りに行って、柏手を打ちます。さて、なぜでしょう。と言っても、答えられる人がどのくらいいるのでしょう。

 神社では二礼二拍手一礼(一拝)が正式と言われていますが、これも、戦後に確率された事で、GHQが占領政策の一環として神道を宗教に格下げするためと言われています。
(出典:神社ch【https://zinja-omairi.com/nirei/】)

 では、お寺にお参りに行ったときは、ただ手を合わせるだけで、柏手を打ちません。これ「なんで?」。

 これは、世界の宗教にみられるように、いろいろな方法があるようです。ですから、「なんで?」の答えは、宗教だからでしょう。

 この神社やお寺の礼儀については、根拠が詳しく分からなくても罰は当たらないと思います。

 大相撲を見ていて気になるのが、土俵の俵を踏んで入ったり、俵に土踏まずを押し付けて、土を落としているのか、足踏み台の様に使っているのを見ると、気持ちが落ち着きません。

 土俵の丸い形に置かれている俵は、結界かどうかは分かりませんが、日本人は敷居を踏まない習慣があります。畳みの縁を踏まないのも習慣としてあります。

 理由は、色々な理由が散見できますが、あまり説得力があるものとは、思えません。

 【2015年3月22日にNHKで放送された「大相撲春場所 千秋楽」では、白鵬が史上最多の34回目の優勝を決めたのですが、放送席ではアナウンサーの刈屋富士雄さん、および北の富士勝昭さんが、白鵬の所作に苦言を呈していました。 』
——-中略——
刈屋アナは、先々代の時津風親方(元豊山の内田勝男さん)が「白鵬が、仕切っている時に勝負俵を踏んでいる、これは失礼で直すべきだと厳しく話していた」ことを引き合いに出し、白鵬に苦言を呈しました。 
勝負俵とは、土俵の内側と外側を区切る俵であり、相撲の勝負を決める重要なもの。これを踏むことは勝負にアヤがついてしまうということで、良くない行為だとされています。 】
(出典:http://blog.livedoor.jp/ninji/archives/43302683.html)

 私が違和感を感じている理由ではありませんが、それから3年経った現在でも、同じ動作が続いています。NHKのアナウンサーが間違った事を言ったのでしょうか。そして、日本の力士も、これを習ってか、俵を踏んで入る力士が増えています。

 相撲と言えば双葉山、と言われるような、大横綱や、第37代横綱安藝ノ海も、俵を踏んでいる写真を見る事ができます。

 もし、これが仕来しきたりであれば、少なくとも力士には徹底してほしいと思います。

 私は習慣や慣例、仕来りや俗習と言うものを、頭から排除する気持ちはありません。

 しかし、これを人に強要したり、知らないからと言って、相手を馬鹿にする必要もないのが、俗習です。根拠が希薄だからです。

 根拠が明白であった場合には、知らない人に教えなくてはなりません。それが会社の中の俗習、習慣と言われているようなものであれば、尚更です。特に会社の場合の常識は、世間では非常識なのかも知れません。それでもその非常識が会社では共有する必要があるのです。

 ただ、その風土に合った残すべき俗習であればあるほど、衆知徹底して、個人攻撃のネタにしない事です。まして、成績や評価にする事の無いようにしてほしいと思います。 

 ですから、この段の『「軸に付け、表紙につくること、兩説なれば、何れも難なし。文の箱は、多くは右につく。手箱には軸につくるも常のことなり」と仰せられき。』は、明回答だと思います。最後に、一般的には、と断っている所は、真似るべき表現だと感じました。