文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【87】

 今日の文字は『渾名あだな』です。今で言えばニックネームになるのでしょうか。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第八十六段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 渾名

 
 昨日、お習字の「6段位合格講座」の書類が届きました。この講座は、講座で段位が取れるのではなく、6段を別に受審する仕組みのようです。まだ、内容が把握できていませんが、挑戦してみようと思います。

 東京書道教育会では、最高段位である事を確認しましたので、頑張ってみようと思いますが、五段の時よりも取得が難しそうに感じています。
 
 こうなったら、気長にやってみます。それにしても、少しは上手くなったのか、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、って言いますから、稽古すれば何とかなるでしょう。

 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第八十六段 〔原文〕

 惟繼これつぐ中納言は、風月の才に富める人なり。一生精進にて、讀經どっきょううちして、寺法師の圓伊えんい僧正と同宿して侍りけるに、文保に三井寺焼かれし時、坊主にあひて、「御坊をば寺法師とこそ申しつれど、寺はなければ今よりは法師とこそ申さめ」と言はれけり。いみじき秀句なりけり。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『惟繼これつぐ(平惟継)中納言は、詩歌や文章を作ることに長けた人である。

 一生精進のために、読経をし、寺法師の圓伊えんい僧正と同じ寺に住んで修行していたが、文保に三井寺みいでらが焼かれた時、圓伊えんい僧正に「御坊を寺法師と申しあげていましたが、寺がなくなったので、これよりは法師と呼びましょう」と言っていたのは、立派で気のきいた言葉だ。』

【参照】
寺法師:三井寺(みいでら)(=園城寺(おんじようじ))の僧徒。[反対語] 山法師(やまぼふし)。

 

 

渾名あだな

 始めに読んだ時に、ふと、渾名あだなかなと思ったのですが、寺法師から法師と言った言葉に込められた、相手をいたわる気持ちが込められたのでしょう。粋で洒落た言葉といえるでしょう。

 この話の中で出てくる三井寺みいでらは、正式には長等山園城寺といい、天台宗寺門派の総本山です。
 智証大師円珍が天台宗別院として再興されてから隆盛を誇ったのですが、円珍の死後比叡山は円珍の門流と慈覚大師円仁の門流との間で対立が起き、円珍門下の僧は山を下り三井寺に入り、双方が僧兵を抱え武力抗争が頻発し、三井寺は数十回に渡り焼き討ちにあいました
【参考にした記事】甲斐健の旅日記URL:http://kazahana.holy.jp/miidera.html

 
 宗教戦争でしょうか。

 信仰との結びつきが分かりませんが、権力争いかも知れません。同じ宗派でいがみ合う事もないと思うのですが、この類の争いは今でもどこかで起こっているようです。

 そんな時に、惟繼これつぐ(平惟継)中納言は、圓伊えんい僧正に冗談とも思える事を、サラッと言って、大層に考える事はありません。ただ、寺が無くなっただけじゃないですか。と言っているようにも聞こえます。

 「人間万事塞翁が馬」が頭をよぎりました。

 この話は有名な話なので、御存じだと思いますが、簡単に説明しましょう。

 「昔中国に、お爺さんが住んでいました。ある時、お爺さんの馬が逃げ出した時に、「良い事が起こる前ぶれだ」とお爺さんがいいました。
 すると、逃げた馬が、駿馬を連れて帰って来たのです。
 こんどはお爺さんは「何だか悪い予感がする」と言っていると、この駿馬に息子が乗って、落馬してしまいました。おまけに骨折して動けなくなったのです。
 しかし、「これは幸運が舞い込んでくるかも知れない」とお爺さんは、またポジティブな事を言いました。
 しばらくすると、戦争が起こり、息子が戦争に行かずに済んだ。」
 
 と言う話です。

 こんなに世の中は上手く運ばないでしょうが、それでも、自分が落ち込んでいる時、人生、一寸先は闇と考えるのも、一条の光が差し込むと考えるのも考え方一つで、幸運を呼び込むかも知れません。いついかなる場合でも、このお爺さんのように、ポジティブシンキングを心がけたいものです。

 ただ、ポジティブに考えるだけではなく、良い事があると、気を引き締めているのも良いですね。

 私は、この文章を読んで「渾名あだな」と言う文字を書きました。徒然草には「渾名あだな」の話が何度かありましたので、又か、と思ったのですが、大変な間違いでした。

 歴史は過酷なもので、「不死鳥の寺」と言われた三井寺みいでらですが、豊臣秀吉の逆鱗に触れ、その命により寺領を没収されたのです。豊臣秀吉が死の直前になって三井寺の再興を許可したようで、現在ある三井寺の原型は、ほぼこの頃に出来たものと言われています。

 また、惟繼これつぐ(平惟継)中納言も、圓伊えんい僧正と寝食を共にしていたでしょうに、自分も路頭に迷った状態ではなかったかと、思います。

 参考資料から推測しますと、惟繼これつぐ(平惟継)中納言が出家したのは、亡くなる1年前ですから、この徒然草第86段でも、中納言の記載があるように、国の要職に就きながら、修行の為、圓伊えんい僧正と同じ三井寺に寝泊まりしていたと思います。ですから、路頭に迷う事も無く、また圓伊えんい僧正にも、手を差し伸べられる権力者であったのかもしれません。

 生活に余裕があって、ポジティブな事を言えたのか、それとも楽観主義者だったのか、あるいは人間が大きかったのか、それは謎のままです。

【参考資料】
平惟継:1266-1343 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう)。
文永3年生まれ。治部卿平高兼の子。勘解由長官(かげゆのかみ),大宰大弐(だざいのだいに)をへて元亨(げんこう)3年参議となる。元徳2年権(ごんの)中納言にすすみ,大宰権帥(ごんのそち),大蔵卿,文章博士を歴任した。暦応(りゃくおう)5=興国3年正二位で出家。康永2=興国4年4月18日死去。78歳。法名は宴儀。
 (出典:デジタル版 日本人名大辞典+Plus 講談社.)