文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【85】

 今日の文字は『じゃく』です。弱虫よわむしの弱いです。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第八十四段』を読んで見て、感じた文字です。

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★『「極論」バカが、今のニッポンを蝕んでいる AI失業論、地方消滅論、TPP亡国論はやめろ』
(田宮 寛之 2018/10/14 07:30)[東洋経済ONLINE]

 今朝は、こんな見出しに興味を持ち読んでみました。

「最近、さまざまな分野で、「極論」が増えていないだろうか。民主的な選挙で選出された政権を「独裁」「ファッショ」と決めつけたり、北朝鮮に圧力を加えろと言っただけで「戦争になる」、「今すぐ原発をゼロにしないと日本が滅ぶ」など、枚挙にいとまがない。少し前には「TPP(環太平洋経済連携協定)はアメリカの陰謀」というものもあった。

近頃では「AI(人工知能)の普及で人間の仕事がなくなる」「人口減少で日本の地方は崩壊する」といった極論を聞くことが多い。——-途中省略——-

『日本を蝕む「極論」の正体』(新潮新書)の著者であり、インターネットやネット保守、若者論などを中心に言論活動を展開する、古谷経衡氏に聞いた。」

 『「極論」バカかどうかは分かりませんが、テレビを観ていても、一応街行く人に意見を求める場合は、その話題に対してどちらもの意見を放映しているように思います。番組にもよりますが。

 しかし、まとめる時は、その局の意図が色濃く出ていて、気持ちの良い物ではありません。確かに白黒はっきりさせると、分かり易いのかも知れませんが、どちらかに付いて、その方向に意見を集約していくような気がします。

 ニュースでは、起こった事をありのままに放送してほしいと思います。コメンテーターの意見が、最近は偏り過ぎだと思います。その点では古谷経衡さんに賛成です。

 特に、バラエティー番組でニュースを取り上げるのは、世界では珍しいと聞きます。

 俳優さんやお笑いの芸人さんは、コメンテーターとして出演すると、人気が無くなると思うのですが、クイズ番組なんかに出ている方が、好感が持てます。余計な事を言わずにすみますから。と言うか言わされている気もします。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第八十四段 〔原文〕

 法顕ほっけん 三藏の天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひける事を聞きて、「さばかりの人の、無下にこそ、心弱き氣色を人の國にて見え給ひけれ」と人の言ひしに、弘融こうゆう※僧都そうず※、「優に情ありける三藏かな」といひたりしこそ、法師の樣にもあらず、心にくく覺えしか。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『法顕ほっけん 三蔵は、天竺に渡り、故郷の扇を見ては悲しみ、病に臥せっている時は、漢の食事を願っていると聞き「それほどの人でも、甚だしく気弱な様子を、他国では見せたのだなあ」と人が言った事を、弘融こうゆう※僧都そうず※は、「情が深い三蔵だ」と言った事こそ、法師のような答え方ではなく、心憎く思えた。』

【参照】
法顕ほっけん :中国、東晋代の僧。399年、六〇歳の頃同学の僧らとともにインド旅行に出発し、412年一人海路で帰国した。その旅行記「法顕伝」(仏国記)は当時のインド・中央アジアの状況を伝える重要文献。「摩訶僧祇律」「大般泥洹経」などを漢訳。生没年未詳。

三藏:(1) 古代、官倉であった斎蔵いみくら・内蔵[うちつくら]・大蔵[おおくら]の総称。みつくら。(2) 〘仏〙 仏教の聖典群を三種に分けたもの。経蔵・律蔵・論蔵の総称。また、仏教聖典の総称。(3) 三蔵に通暁した僧を敬っていう語。また、仏教聖典を翻訳した僧、特に玄奘[げんじよう]を敬っていう語。みつくら。(4) 馬方・船頭・徒弟などの通称。

僧都そうず※ :(1)僧綱そうごうの一。僧正の下、律師の上に位し、僧尼を統轄する。初め一人であったが、のちに大・権大・少・権少の四階級に分かれる。(2) 明治以降、各宗派の僧階の一。(3) 添水そうず
(出典:大辞林第三版 三省堂.)

弘融こうゆう※:江戸時代中期の真言宗僧。但馬満福寺の第57世住職。字は即成(そくせい)。俗姓は高岡氏。江戸期に但馬の弘法大師と呼ばれた弘元上人の高弟。池田草庵の兄弟子。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 

 

『弱』

 ここで、兼好法師は、友人である弘融僧都こうゆうそうずの言い方に、納得し同意したのでしょう。

 法師であれば、普通は説教じみた事を言うか、方便でこの法顕ほっけん 三蔵をかばうような発言があってもおかしくはないのでしょう。

 しかし、弘融僧都こうゆうそうずは、人間らしくて良いじゃないか、と言いたかったのだと思います。

 兼好法師の友人と言う事ですから、兼好法師は、「らしさ」「いかにも」と言った事が好きではなかったのだと推測しました。

 類は類を呼ぶと言うように、兼好法師の友達は、僧侶であっても僧侶らしくない人であったのでしょう。

 私は、「らしさ」は、好きでした。例えば、先生は先生らしく、社長は社長らしく、医者は医者らしい方が好きでした。今でも、自分の仕事に誇りをもって襟を正している姿は好ましいと思います。

 しかし、この「らしさ」は、ともすると「いかにも」になってしまいます。

 法顕ほっけん 三蔵は、今で言えばホームシックにでもかかったのでしょう。病気かも知れませんが、やはり立派な僧侶とは言い難いと思います。

 昔覚えた言葉に、

 京の五条の橋の上 行き交う人を林に見立てて
 京の五条の橋の上 行き交う人をそのままに見て

 と、覚えていたのですが、

 座禅せば 四条五条の橋の上 往き来の人を深山木みやまぎにして

 が元になっているようです。。
 大徳寺の開祖・大燈国師(宗峰妙超)が詠んだ和歌のようです。
 (出典:世論時報社)〔URL=http://www.seronjihou.co.jp/simiiruzenngo19.html〕

 私はこの言葉の上の言葉「林に見立てて」よりも、下の言葉「そのままに見て」の方が、より偉いと記憶しています。

 この言葉を聞いた時に、なるほどと納得した思い出があります。言うまでもなく、心を動かさない様子ですが、前者は、人を林に見立てなければ、心が動いてしまう。後者はどんな人の様子を見ても心は騒がないと言う意味に捉えました。

 座禅をすると言うのは、自分の心をコントロールできるようにする事ですから、この天竺への旅で、たとえホームシックになっても、病気になっても、心を動かさない程の人であってほしいと思います。

 ただ、前にもこのブログに掲載した話があります。

『不動智神妙録』から学ぶ(Part 9)

 和尚さんと小坊主が歩いている時、うなぎのかば焼きの匂いがしました。和尚さんが「うまそうだ」と言いました。ほんの少し間を置いて、小坊主が、「和尚さんでも心を惹かれますか」というと、和尚さんが「おまえはまだ鼻先にそんな物をぶら下げているのか」といったと言う話です。
 学生時代の記憶ですから、話を脚色しているかも知れません。この話にふと合点の行くところがあり、今でも覚えています。
 歳をとると、興味と言うものが薄れていくように思っています。それでも、色々な事に興味を持つ事も必要かな、とも思います。ただ、うなぎの話のように、いつまでも引きずらない事が大切であると思っています。

 法顕ほっけん 三蔵と言われると言う事は、「三蔵に精通した人」で僧侶の中でも敬った呼び方をされています。〔三蔵は前出を参照〕

 であれば、「優に情ありける三藏かな」と言うよりも、私は、くだんのうなぎ和尚のように、心を動かされても、一過性の物であって欲しかったと思います。

 確かに三蔵と言われて敬われても、それは、学問に優れたと言う意味でしょうから、悟りを開かれたとは書かれてありません、法顕ほっけんさんは、学者なのでしょう。

 最近は、財力が全ての風潮がありますから、知識もそれほどの価値がないのかも知れませんが、それでも、知識のある人が賢いというきらいは否めません。

 しかし、人間にとって何が大切なのか、その大切なものを持っている、あるいはその段階に達している人を賢者と呼んでもよくありませんか。

 では、人間にとって何が大切なのでしょう。時代時代によって人間が求めるものは随分変化があります。今は財力や権力に価値観を持つ人が多いと思いますが、これも諸行無常、いつ変わるか分かりません。

 人間が求める物が、人間にとって大切なものなのでしょうか。私は、そうでもないような気がします。

 よく、ありのままが良いと言う言葉を聞きます。とても響きは優しくて、良いのですが、果たして、人間をありのままにしておいて、良い方向に行くのでしょうか。

 もし、人間にとって何が大切なのか、解れば、私は賢者です。しかし、残念ながら、賢者ではない私には分かりません。

 私が言える事は、ありのままでも、欲しいままにする事も、人間にとっては良くないのだと、思います。

 前に掲載していますが、 座禅の仕方の中に私の好きな言葉があります。

 「其の飲食を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣にせず。」

 この中の「節せず、恣にせず」と言うのが、人間には求められていると思います。

 人間が求める物を追い求めれば求めるほど、世界にとって、世界を取り巻く環境にとって、生きとし生けるものにとって、息苦しくなっていくような気がします。文明も文化もほどほどが良いのでしょう。

 だからと言って、「欲しがりません勝つまでは」と言った所からは、反動しか生まれないと思っています。

 いつの時代でも、行き過ぎないように、滞り過ぎないように、人は生きていくのが最適かも知れません。