文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【77】

 今日の文字は『べつ』です。「別」と言っても「別離」ではなく、「別々に分ける」と言う意味で捉えました。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第七十六段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 
 少し小雨がパラついているのですが、近くの幼稚園の運動会の準備がされています。台風25号も少し上にそれて、明日には温帯低気圧に変わりそうです。それでも、九州の一部と山口県では暴風域にありますので注意してください。

 運動会の開会式までに、雨が上がり、もう少し晴れてくれてると、運動会らしいのですが、ま、台風よりましです。

 と、ここまで書いている内に、雨が本降りに変わりました。どうも止みそうにありません。運動会は延期かも知れません。

★『「旭日旗は戦犯旗」と感情論 自縄自縛の韓国』
株式会社 産経デジタル (2018/10/05 17:44)の見出しを見つけました。

 韓国だけでなく、中国も「旭日旗」には異論があるようです。確かに1870年に大日本帝国陸軍の陸軍御国旗、1889年に大日本帝国海軍の軍艦旗とされていますから、大日本帝国と結び付けたい気持ちは分かりますが、現在では、陸上自衛隊で自衛隊旗、海上自衛隊で自衛艦旗として使用され、国際海事機関(IMO)に正式登録され『日本国旗』として認められているそうです。

 私などの印象は、祝祭日に家の前に、日章旗(日の丸)と旭日旗を掲げてあり、電車やバスの前に旗を付けていたのを思い出します。

 歴史的な事については、国の中でも食い違いが起こるのですから、仕方ないかも知れませんが、少なくとも旧連合軍いわゆる国連(国際海事機関(IMO)は国際連合の専門機関の一つ)が認めた、旗ですから、これは認めるべきだと思います。

 と、書いている間に、陽が差してきました。でも、運動場がびしょびしょなので、運動会は諦めたようです。

 暑くなりそうですから、熱中症に気を付けましょう。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第七十六段 〔原文〕

 世の覚え花やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く往きとぶらふうちに、聖法師ひじりほうしの交りて、いひ入れ佇みたるこそ、さらずともと見ゆれ。

 さるべきゆゑありとも、法師は人にうとくてありなん。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『世間で栄えていると思われている家で、冠婚葬祭がある時、人が沢山集まる時、その人の中に聖法師ひじりほうしも交じって、家に入ろうと立っているのは、そんな事はしなくても良いと思う。

 相当な理由があったとしても、法師は世俗の人と親しくしない方が良い。』
【参照】
聖法師ひじりほうし:一つの寺や宗派に属さず、諸国を巡って修行に専念する僧。
(出典:学研全訳古語辞典 学研.)

 

 

『別』

 一言で言えば、「そんな、みっともない事するなよ」と言いたかったのでしょう。

 私は、初めこの段を読んだ時に、「なんで?」と言う思いがしました。一般の人と仲良くするのがなぜ悪いのか、僧侶は檀家の人と仲良くしないといけないのでは。と思ったのです。

〔檀家〕

 それで、檀家を調べて見ますと、檀家制度が始まったのは、檀越だんおち(施主)となった有力な氏族が建立した寺院が葬祭供養を執り行う事になったといいます。

 この檀越だんおちが檀家の始まりのようですが、これが飛鳥時代の事です。しかし、時代が変わり、檀家と言うような形ではなくなりました。

 復活したのは、江戸時代になってからで、キリスト教徒の弾圧に深くかかわりがあったようです。

 であれば、奈良時代の後期から室町時代には、私が考えたような檀家制度が無かったものと思われます。

〔貴族〕

 それよりも、天皇や貴族の子女が出家するのですから、一般と格差を持たなければならなかったのかも知れません。

 法師としては、ここで言う一般と言っても「世の覚え花やかなるあたり」とありますから、ただの成金ではなく、貴族の中でも浮き沈みがあり、貴族の中で立身出世した家と推測できます。

 それでも、僧侶はその立身出世した家の人よりも、一段高い所に身を置きたかった気持ちがします。

 当然、身分制度が普通の時代ですから、信じて疑わなかったのでしょう。

 ですから、「食うに困って、ひもじい思いをしても、そんなところに並ぶな」と言いたかったのだと思います。聖法師ひじりほうしと言えども僧侶には違いがない、いわゆるプライドでしょう。

〔品位〕

 最近では、名士と呼ばれるような人、特に議員などが、一般の人と安い食事を共にするような光景をテレビでみます。

 これには、逆に反感を持ちます。パフォーマンスにしか映りません。その食べている姿は、板についていませんし、なんだかおもねるきがするのですが、天邪鬼あまのじゃくなのでしょうか。

 お高くとまっているのも、見苦しいですが、如何にもすり寄ってご機嫌を取る人も、見ていて気持ちの良い物ではありません。

 その時代時代によって格差があるのが人間の社会です。格差がないと言いながら、社会主義者や共産主義の社会でも、格差を感じます。

 特に宗教界などを見ていますと、格差社会そのものです。自由平等と言っても、人は格差を持ちたいのでしょう。

 私は、格差はあっても悪いとは思っていません。その人の能力に合わせて相手を評価する必要があると思っています。これは、差別ではなく区別だと思います。

 主義や思想は、これからも、変わっていくと思いますが、やはり、それなりに努力して、人の役に立つ人の評価が高い方が、うれしくないですか。

 その結果、生活に格差が生まれると思っています。しかし、その格差に合わせた品格を持ちたいものです。

 品格と言うのは一朝一夕で備わる物でもありませんが、人の役に立って、そして生活にも格差が出来、自然と人の上に立つ人には、品位が備わって欲しいものです。

 知識があり、智慧があり、そして統率力があり、部下に慕われ、信頼されるような人に、品格が備わっていると、自然と世の中は良くなるような気がします。

 そして、そんな人が、人の為に世の中の為に、働けるような世の中になってほしいと期待します。

〔線引き〕

 わざわざ兼好法師の言うような『さるべきゆゑありとも、法師は人にうとくてありなん。』と、どんな理由があったとしても、法師は一般の人と一線を引いておかなければならない。などと、断らなければならない事の方が、私は、問題だと思っています。

 本人たちは、自分たちが解脱するために、出家して法師になったのかも知れませんが、仏教と言うのは教えですから、人から尊敬され崇められる言動を伴わないと、修行の意味がありません。

 自分たちでプライドを持って、一線を画するような行動をしなくても、存在そのもので、人々から一線を画してもらえるような人でなければ、賢者とは言えないのでは無いかと思います。

 それでも、一般人の中には愚者と賢者の区別がつかない人もいます。これを下品な人と言います。そして教養がない人の事を愚者と言います。

 一線を画してもらえるような人に成る事は、難しいかも知れませんが、できれば、そんな人が分かるような眼を持ちたいと思います。