文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【115】

 今日の文字は『あつかい』です。物の扱い方です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百十四段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 
★『2009年1月1日以降、使ってない口座はありませんか? 「休眠口座」は2018年中に解約しないと、手続きが面倒になったり損します。』
(マネーの達人 青海 光 2018/11/11 20:00)
「放置している「休眠口座」はありませんか?
「使わない銀行口座も、解約が面倒で放置している」という方も多いようですが、長い期間使わないまま銀行口座を残しておくと、お金を引き出す手続きが煩雑になってしまったり、手数料を徴収されたりする場合があります。
——–中略———
口座維持手数料の導入を見据えて、10年は経過していなくても、数年以上使っておらず今後も使う予定のない口座は、解約しておくにこしたことはないでしょう。
「休眠口座」は2018年中に解約しておこう!
——-後略——-」

 その中の記事に、「SMBC信託銀行プレスティアでは、月額2,000円(税抜)を口座維持手数料として支払う必要があります(所定の条件を満たすと無料です)。」と言うものもありました。他の銀行も維持手数料が発生する場合もあると言う事なので、月額2,000円は、痛すぎます。即時解約しましょう。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百十四段 〔原文〕

 今出川のおほい殿、嵯峨へおはしけるに、有栖川のわたりに、水の流れたる所にて、齋王丸 御牛を追ひたりければ、足掻あがきの水、前板までさゝとかゝりけるを、爲則、御車のしりに候ひけるが、「希有のわらはかな。斯る所にて御牛をば追ふものか」と言ひたりければ、おほい殿、御氣色悪しくなりて、「おのれ、車やらんこと、齋王丸に勝りてえ知らじ。希有の男なり」とて御車に頭をうちあてられにけり。

 この高名の齋王丸は、太秦殿うづまさどのの男、料の御牛飼ぞかし。この太秦殿に侍りける女房の名ども、一人は膝幸ひざさち、一人はこと槌、一人は胞腹はうはら、一人は乙牛おとうしとつけられけり。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『今出川のおほい殿、嵯峨へ来られた時、有栖川のあたりで、水に浸かっている所で、齋王丸 が牛を追いたて、牛がが前足で水を掻いて、水が牛車の前板にかかったので、牛車の後ろに控えていた家来である為則が「とんでもない牛飼いだ。このような所でなぜ牛を追い立てる」と言えば、おほい殿、機嫌を損なわれて、「おまえ、車の扱いを塞王丸より詳しいのか、非常識な男だ」言い、牛車に頭を打ちつけた。この有名な塞王丸は太秦殿に牛飼いの職として仕える男だ。
 この太秦殿に仕える女官の名は、一人は膝幸ひざさち、一人はこと槌、一人は胞腹はうはら、一人は乙牛おとうしと名付けられた。』

 

 

『扱』

 確かに、現在の自動車でも、ぬかるみに入ると抜け出すのが大変になります。ですから、スピードを上げて通り抜けようとしたのは、牛車の扱いに慣れていると思います。

 学生の頃に自動車免許を取得したのですが、当初は車の運転が好きで、わざわざぬかるみに車を入れ、脱出する方法を練習した事もありました。

 ぬかるみに入った状態から、前にゆっくり動かし、そして次はバックをし、それを繰り返して脱出した事が思い出されます。結構クラッチ操作が忙しいです。現在のオートマチックでは無かったので。

 何でも、体験してみないと解らない事が多いのも事実です。一を聞いて十を知る事も大切ですが、実際にやってみると、違った発見があるものです。

 ですから、この家来が文句を言ったのを咎めた気持ちも分かります。でも、この咎め方は、今ではパワハラで訴えられるでしょうね。いや傷害事件に発展するかも。

 この太秦殿と言う存在が分かりませんし、この文章から牛好きと考えるのは、すこし考えすぎとも思えます。他の徒然草を解読しているものを読むと、牛にちなんで女官の名前を付けていると書かれてあります。

 この女官の名前が牛に関するものかどうかも私には、最後の乙牛おとうししかピンとこないですし、果たして動物の名前を、女官に付けたとしたら、牛好きというより、やはりハラスメントが過ぎるようにも思います。

 しかし、当時は使用人はそのように、家畜同然の扱いを受けたのかも知れません。あくまでも、憶測の域をでませんが。

 実際に国内の身分制度と言えば、「士農工商」と言う江戸時代に出来たとされるものが浮かびますが、鎌倉時代には天皇や貴族よりも下の身分については、曖昧であり、もしかしたら、人間としての扱いも受けていない場合も考えられます。

 国の人口の大半を占める農民でさえ、天皇や貴族の持ち物、と言うと語弊があるかも知れませんが、そんな存在だったのかも知れません。

 それでも、その身分を越えて、何かに長けている人に対しては、認めるような扱いがあった事が、この徒然草には何度か見る事が出来ます。

 現在はと言うと、一見平等な扱いを受けているように見えますが、決して平等とは言えない扱いを受ける場合もあります。

 一つには学歴でしょう。良い大学を出たからと言って、世の中の為になるような人に育っているかと言うと、違うと思います。それは尺度が間違っているからに他なりません。にも拘わらず、中学卒や高校卒あるいは二流三流の大学卒や中退の人とはスタートラインが違うように思います。

 また、金持ちに生まれたからと言って、良い人間に育っているかと言うと、意外と人間に悖る行いをして犯罪者になる人も、結構ニュースになる事があります。

 会社の中でも、仕事が出来る事と出世と言う事が、直結していれば良いのですが、上司から睨まれると、なかなか払拭する事もままなりません。いつまでも色眼鏡で見られる事になり、出世の糸口も探せないのが実際の所かも知れません。

 よく、出世街道とかレールに乗るとか言われていますが、これは、身分制度と考えが変わっていないと思います。

 昔、空手界である人が出世して、その下に着いていた人が、私に言った言葉があります。その出世した人を信じてきたのに、いまさら。とある人の事を非難したのです。そのある人は出世をしましたが、その職を辞したのです。

 私は、その人の考えが如何にも陳腐で、その人の人格の薄さを痛感した事がありました。

 私はもう組織に属する事もありませんが、組織内であっても、何が自分に出来るかを常に考えていました。ですから、その時の為政者が必要と思えば、世間で言われる出世に繋がるのでしょうが、私にはあまり関係のない事でした。

 組織の中では、役職によってできる範囲があります。ですから、与えられた役職に応じた働きを精一杯こなす事が、私が考える、働くと言う事だったと振り返る事が出来ます。

 人は、それを出世と言うかも知れませんが、あまり私には関係のない事です。もちろんそれが、組織と言っても会社の場合は賃金に影響しますので、役に立つと思ってもらうと、生活も安定しますので、喜ばしいとは思います。何より家族の生活が安定しますから。

 結局、時の権力者によるとは思いますが、自分が権力者でない場合は、自分が出来る事を一生懸命やることだと思います。運が良ければ、お金は後からついてくるのではないかと思います。もし、ついてこなくても、人から身分を限定されるより、 自ら「分相応」な人生を送ると、幸せな人生になると思います。