文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【207】

 今日の文字は『かい』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二百六段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 

☆『天皇謝罪発言「抗議なかった」=外相会談で韓国政府』
(時事通信社 2019/02/16 10:48)
「【ソウル時事】韓国外務省は16日、康京和外相が15日、河野太郎外相と会談した際、慰安婦問題に関し天皇陛下の謝罪を求めた文喜相国会議長の発言について、河野氏が「抗議した」という日本側の発表を「事実でない。日本側の言及はなかった」と否定した。

 康外相も15日、訪問先のミュンヘンで韓国記者団に対し、「そのような話はなかった」と断言した。「(抗議は)会談に同席した日本の外務省幹部の発言か」という問いに対しても、「そのようなことはなかった」と説明したという。

 日本側関係者はこれより先、河野氏が謝罪と撤回を改めて要求し、これに対する康氏の発言はなかったと説明しており、会談でのやりとりをめぐる食い違いが表面化した。」

 余りにも馬鹿げた話が続くので、この問題には触れたくはありませんでした。しかし、国の外務大臣同士の話し合いの中で、有った事を無かったと言える神経はどうなっているのでしょう。

 韓国と言う国は、大統領・国会議長・大臣に至るまで、一体日本に何をしようとしているのでしょうか。

 日本は、もう戦争を望んではいません。しかし、日本は何を言っても、何をしても、何も出来ない国と思っているのでしょう。

 困ったものだと、言っていられる間は、まだ良いのですが、先行きが不安になります。 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二百六段 〔原文〕

 徳大寺右大臣殿、檢非違使の別當のとき、中門にて使廳の評定行はれけるほどに、官人 章兼が牛はなれて、廳のうちへ入りて、大理の座の濱床の上にのぼりて、にれ うち噛みて臥したりけり。重き怪異なりとて、牛を陰陽師のもとへ遣すべきよし、おのおの申しけるを、父の相國聞きたまひて、「牛に分別なし、足あらば、いづくへかのぼらざらん。わう弱おうじゃくの官人、たまたま出仕の微牛をとらるべきやうなし」とて、牛をば主にかへして、臥したりける疊をばかへられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。

 「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」といへり。

 

『現代文』

『徳大寺右大臣殿が、検非違使庁の長官であったときに、寝殿造りで、表門から寝殿の南庭に通じる門で検非違使庁の評定が行われたが、下級の役人である 章兼の牛が逃げて庁舎の中に入り、大理の座の浜床の上に上がり、食べ物を反芻して横になった。重大な異常事態だと、牛を陰陽師のところに遣わすよう、各々が言うのを、父の相国が聞かれて、「牛に分別はない。足があれば、どこにでも登る。力のない下級役人が、たまたま出仕した時に貧弱な牛を取り上げる理由はない」と言って、牛を飼い主に返して、牛が寝ていた畳を取り換えられた。まったく不吉な出来事はなかった。

「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言われている。』

 

 

『怪』

 原文では、『怪異』とありましたが、異常事態の事を言ったのでしょう。『怪しい』も異常と思った方が、良いと思います。

 また、最後の一行は、中国の宋・洪邁こうまい夷堅志いけんし 志怪しかい小説集」よりの引用でしょう。

 すこし、この文とは違いますが、「怪を見て、怪しまざれば、其の怪 自ずからやぶる。」と言うのがあります。意味は『異常な事柄に遭っても、うろたえて騒ぎ立てなければ、自然に異常な事も消滅してしまうものだ。』と訳しました。

 確かに経験した事のない事態に陥ると、人はその事態に驚き、うろたえてしまうと思います。

 そうならないために、「不動智神妙録」でも、「五輪書」「独行道」でも、人の心について書き記されています。

 私も「髓心」と言う言葉を使って、この事には深く興味を持ち自分の経験と、これらの書物によって、自分の意志とは違う動きをする『心』について研究してきたつもりです。

 ここで言っているのは、この「心」に蓋をしてしまう事になると思うのですが、私は「ない事にする」事が出来ないのが『心』だと思っています。

 『怪しみを見て怪しまざる時は』と、考えられれば苦労はしません。異常事態を経験すると、すでにこれを実体験してしまっている所から、心の動きを考えなければならないと思います。

 方法は三つあると思います。一つは、ここで言われているように、無かったことにする事です。そして、いま一つは、異常が納まるまで静かにして、行き過ぎるのを待つ方法です。残りの一つは、そんな異常な時に心が動かないように訓練しておく事です。

 私は、最後の一つを選択したいと思っています。

 私の経験では、ほとんどの人は、二番目に挙げた、異常が納まるまで静かに行き過ぎるのを待っている事が多かったです。確かに強大な権力の前で、成すすべもなく、理不尽な思いをしながら、まるで台風が行き過ぎるのを待っているかのように。

 これも、人生の歩み方ですから、いちがいに否定する事は出来ません。また、そうせざるを得ない状況に遭遇する事もあります。

 ただ、出来れば、その理不尽な力に立ち向かう事ができる方を私は選びたいと思うのです。ですから、初めの第一歩で『心』を閉ざすのではなく、状況判断ができる正常な『心』でいたいと思います。『不動智』です。

 また、婆子焼庵ばすしょうあん」と言う「公案」もあります。この公案、禅の世界では、悟りを開くための工夫と言われているものの一つです。その内容は、簡単に言うと、女性の誘惑を跳ね返した修行僧の話ですが、この場合は、自分の本心を偽ったことで、お婆さんに庵を焼かれてしまった話です。ですから、私が先述した三つの内の最初の「心」の持ち方に匹敵するのでしょう。

 もちろん、「公案」と言う位ですから、もっと深い意味があると思います。ただ、ここでも『心』についての話が語られていますので、『心』を動かさないと言うのは並大抵の事ではありません。

 一般的に言う言葉としては、『肝が据わっている』あるいは『物事に動じない』と言われるような人です。案外、物事の本質を即座に見抜く目を持つと、正常な判断ができるかも知れません。

 もちろん、ここで言われているような『牛』の問題とは違います。しかし、時代を考えれば、異常と言える事態であり、その飼い主に重大な過失があると、罰せられる事にもなりかねません。

 たまたま、この異常事態を収められる人が、『物事に動じない』人で良かったですね。

 それにしても、この『牛』の事件を、不吉な予兆と考えたとは、やはり時代感がありますね。