文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【161】

 今日の文字は『語法ごほう』です。ここでは、言葉遣いと言う意味で書きました。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百六十段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 語法

 

★『渋る防衛省、安倍首相が押し切る=日韓対立泥沼化も-映像公開』
(時事通信社 2018/12/28 18:38)

★『日本はレーダー詳細公開を=解明に周波数など必要-韓国軍』
(時事通信社 2018/12/28 23:25)

 「【ソウル時事】海上自衛隊のP1哨戒機が韓国駆逐艦から火器管制レーダーの照射を受けた問題で、韓国軍関係者は28日、日本防衛当局が「(火器管制レーダーの)周波数の特性を一つも公開していない」と述べ、真相解明にはレーダーの詳細を明らかにすべきだとの認識を示した。

 韓国側は、駆逐艦が広範囲の探索を目的とする別のレーダーを対艦用モードで使用していたと主張。火器管制レーダーは付属の光学カメラのみを稼働させ、レーダー照射はしなかったという立場を強調している。

 韓国軍関係者によると、照射を受けたレーダーの周波数の特性を公開するよう日本側に求めたものの、日本側は拒否。軍関係者は「周波数の特性が出れば、客観的にどのようなレーダーなのか判明する」と述べ、真相解明には周波数の特性を公開することが必要だと指摘した。」

 と言う記事が今日も見られました。

 詳細に開示することは、軍事機密と言う事は、韓国は十分解った上で、詳細な開示を要求しているように思えます。

 どちらかは分かりませんが、日本側の言い分が正しいのであれば、素直に謝れば済む事だと思います。こういう行き違いから、過去には戦争も起きています。

 韓国側の主張が正しいと思わないのは、日本がそんな嘘をついても、なんの得にもならないと思うからです。

 この問題、長引かせるとロクな事になりません。韓国や中国がメンツを気にする国である事は、十分解りますが、プライドも過ぎると頑迷に見えます。

 国際社会は特に大人の関係でありたいものです。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百六十段 〔原文〕

 門に額くるを、「打つ」といふはよからぬにや。勘解由小路かでのこうぢ二品禪門は、「額懸くる」とのたまひき。「見物の棧敷うつ」もよからぬにや。「平張うつ」などは常の事なり。「棧敷構ふる」などいふべし。「護摩焚く」といふも、わろし。「修する」、「護摩する」など云ふなり。「行法も、法の字を清みていふ、わろし。濁りていふ」と清閑寺僧正仰せられき。常にいふ事にかゝることのみ多し。

 

『現代文』

『門に額をかけるのを、「打つ」と言うのは良くないのか。勘解由小路かでのこうぢ二品禅門は、「額かける」と仰った。「見物の桟敷うつ」もよくないのか。「平張うつ」などは日常使う。「桟敷構える」などと言うべきだ。「護摩焚く」と言うのも、よくない。「修する」、「護摩する」などいうものだ。「行法も、法の字を清音で言うのはよくない。濁って言うのが正しい」と、清閑寺僧正が仰せになった。ふだん言っていることに、このようなことは多い。』

 

『語法』

 この勘解由小路かでのこうぢ二品禅門は、言葉の学者なのかは分かりませんが、日常何となく使う言葉には、言語学者から言うと、間違った使い方をしているものも多いと思います。

 現在では、ここで言っている使い方とは違うようになっています。ですから、当時から使い方が変わって来たのかも知れません。

 平張りと言うのは、現在で言うテントのようなものです。当時はこれを「うつ」と言ったのでしょう。源氏物語の中にも『南の廂に、上達部、左右の大臣、式部卿宮をはじめたてまつりて、次々はまして参りたまはぬ人なし。舞台の左右に、楽人の平張打ちて、西東に屯食八十具、禄の唐櫃四十づつ続けて立てたり。』と言う言葉使いが見られます。

 ちなみに、空手道の型を演武することを、『うつ』と言います。これもいつの間にか、『演武』と言う言葉になっていますが、私にもいつからか、はっきりしていません。

 言葉と言うのは、時代時代を反映するものですが、個人的にはあまり変化してほしくはありません。

 言語と言うのは、人と人が心を通わせる道具ですから、お互いの認識が違うと、言葉の意味を成しません。

 この場合は、いわゆる動詞が違うと言っているのですが、それには、言語上良くないのではなく、吉凶やその動詞のもつ意味から、使わないようにしていたのでしょう。

 動詞だけではなく、最近私も驚いたのは、「侃侃諤諤かんかんがくがく」と「喧喧囂囂けんけんごうごう」の二つの言葉です。

 「侃侃諤諤かんかんがくがく」と言う言葉は、遠慮なく議論する事をいいます。そして、「喧喧囂囂けんけんごうごう」は、各々が好き勝手に騒ぎ立てて収拾がつかない有様と思っています。まったく意味合いの違う言葉です。

 ですから、「喧々諤々けんけんがくがく」と言うのは、間違いと思っていました。ところが、最近辞書を引いて見ますと、この文字が載っています。誤用から市民権を得たとの事でした。

 しかし、みんなが使うからと言っても、誤用であると分かっていても、辞書に載せるのですね。

 言葉と言うは、そんなものなのか、とも思いますが、これでは、正しい日本語をどうすれば習得できるのか、疑問に感じてしまいます。

 確かに無常の世界ですから、同じ事が長い間に変わっていくのは、仕方のない事かも知れません。

 丁度私が子供の頃は、大人の人は、旧字体と言うものを使っていました。例えば、「会」と言う文字は「會」と言うように。大人の人は、随分困ったと思った事でしょう。

 それでも、いつの間にか、人々の間には現在の漢字が浸透していきました。

 しかし、お陰で、昔描かれた文字を読む事が出来なくなってしまっています。まだ、毛筆で書かれた昔の文章を読む事ができないというなら理解できますが、印刷された活字が読めないと言うのも困ったものだと思います。

 確かに、ここでも原文を現代文にしていますが、あくまでも、私流であり、実際の原文を読むのとは違う部分もあると思います。

 これは、五輪書や論語なども、結局現代文に訳したものに目を通す事になってしまいます。

 書道では、現在使われている漢字と、旧字体、そして昔から書かれてきた書写体、仮名文字では万葉仮名や変体仮名などを覚えて置く必要があります。

 ますます、 専門化してしまい、一般の人が義務教育だけでは、本を読めなくなってしまうのではないでしょうか。多分に自分自身を基本に考えた場合ですが。