文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【242】

 今日の文字は『突然とつぜん』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二百四十一段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 突然

 

☆『原発支援へ補助制度案 経産省、2020年度創設めざす』
(朝日新聞デジタル 2019/03/23 10:48)

 「経済産業省が、原発で発電する電力会社に対する補助制度の創設を検討していることが分かった。温室効果ガス対策を名目に、原発でつくった電気を買う電力小売事業者に費用を負担させる仕組みを想定しており、実現すれば消費者や企業が払う電気料金に原発を支える費用が上乗せされることになる。2020年度末までの創設をめざすが、世論の反発を浴びそうだ。

 経産省の内部資料や複数の関係者によると、省内で検討されている仕組みは、原発については、発電事業者と電力小売事業者との間で取引する際の市場価格に一定の価格を上乗せすることを認めるものだ。原発を温室効果ガスを排出しない「ゼロエミッション電源」と位置づけ、環境への貢献で付加価値をもたらしている、との理屈だ。

 発電事業者は原発の電気をより高い価格で買ってもらえるため収入が増える。これが事実上の補助金になるという想定だ。

 モデルにするのは、米国のニューヨーク州が導入する「ゼロ・エミッション・クレジット(ZEC)」という制度で、原発の電気について市場価格への上乗せを認める。直近では、原発の発電量1キロワット時あたり約1・9円を価格に上乗せして売ることができる。日本の電力業界関係者は「赤字の原発が黒字になるくらいのインパクトがある」と分析する。

 経産省は、太陽光発電などの再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度(FIT)を見直す20年度末にあわせて、原発の補助制度の導入をめざしている。」

 この期に及んで、あくまでも、原子力発電を推進しようとする動きなのでしょうか。

 経済優先が如何に、国民の「幸せ」と言う概念から遠くにあるかを、認識するべきだと思うのですが、どうも経済的に豊かになることだけが、「幸せ」と勘違いしているように思います。

 そして、経済の成長が、国民の生活を成長させるかと言うと、より格差を助長する事も知っておく必要があります。

 なにより、いつもこのブログで書いていますが、原子力を扱うには、人間はまだ扱える程の成長をしていない事に、気が付くべきだと思います。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二百四十一段 〔原文〕

 望月のまどかなる事は、暫くもじょうせず、やがてけぬ。心とゞめぬ人は、一夜のうちに、さまで變る樣も見えぬにやあらん。病のおもるも、住する隙なくして、死期しごすでに近し。されども、いまだ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念に習ひて、生のうちに多くの事を成じて後、しづかに道を修せむと思ふ程に、病をうけて死門に臨む時、所願一事も成ぜず。いふかひなくて、年月の懈怠けだいを悔いて、この度もしたち直りて命を全くせば、夜を日につぎて、この事かの事、怠らず成じてんと、願ひをおこすらめど、やがて、おもりぬれば、われにもあらず、とり亂して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事まづ人々急ぎ心におくべし。

 所願を成じてのち、いとまありて道にむかはむとせば、所願盡くべからず。如幻の生の中に、何事をかなさん。すべて所願皆妄想なり。所願心にきたらば、妄心迷亂すと知りて、一事をもなすべからず。直ちに萬事を放下して道に向ふとき、さはりなく、所作なくて、心身ながくしづかなり。

 

『現代文』

『満月が丸いのは、少しの間も安定せず、やがて欠ける。心を留めない人は、一夜でそこまで変わる様子も見えないに違いない。病が重くなるのも、少しも同じ症状ではなく、すでに死期が近づいている。しかし、まだ症状が緊急ではなく、死期が迫っていない時には、普段と変わらないと思い、生きている間に多くの事を成し遂げた後、静かに仏道を修行しようと思っているうちに、病にかかり死に臨み、願いは一つも達成できない。言う甲斐もなく、年月の怠慢を悔いて、この度、もし病から立ち直って命を全うするならば、昼夜の別なく、この事、あの事と怠けることなく達成しようと、願望するようだが、直ぐに病が重くなれば、正気を失くし、取り乱して死ぬ。このような人が多い。この事をまず人々は心に留めるべきだ。

 願いを達成した後、暇があれば仏道の修行に向かおうとしていると、願望が尽きない。幻のような人生で、何を成そうというのか。迷いの心が起こると知って、一つの事も成就してはならない。ただちに、一切を投げ捨て、仏道に向かう時、邪魔なものはなく、無駄な事はせず、心身はいつも静かである。』

 

 

『突然』

 確かに、世の中、常にある事ですが、前触れもなく、人の命を奪ってしまいます。

 命を奪うまでもなく、突然大きな病に蝕まれる事もあるでしょうし、突然事故に遭う事もあります。

 だからと言って、何の願望も持たず、仏道の修行に勤しむ事が、人間の在り方かと云うと、少し違った考えを持っています。

 確かに、心は安らかで、波立つ事は無いのかも知れませんが、これも、一つの願望に違いありません。

 大願成就と云う言葉がありますが、お釈迦様は五百の誓願をしたと伝えられています。ちなみに、誓願と云うのは「仏・菩薩が一切衆生しゆじようの救済を願って必ず成し遂げようと定めた誓い。」(出典:大辞林第三版 三省堂.)です。

 もちろん、仏教を信じる人から見れば、「俗人の願いとお釈迦様の誓願と同列に扱うな」と言うとは思います。

 しかし、誓願した事を成就するために、常に心は安らかである分けがありません。それが世の中の平和などを願うのであれば、尚更ではないでしょうか。

 私は、人間は一喜一憂すれば良いと思っています。ただ、自分の心をさいなむような、一喜一憂の仕方は、決して自分の為にはなりません。

 これも、前に書きましたが、次のような話を書きました。

『不動智神妙録』から学ぶ(Part 9)

 和尚さんと小坊主が歩いている時、うなぎのかば焼きの匂いがしました。和尚さんが「うまそうだ」と言いました。ほんの少し間を置いて、小坊主が、「和尚さんでも心を惹かれますか」というと、和尚さんが「おまえはまだ鼻先にそんな物をぶら下げているのか」といったと言う話です。
 学生時代の記憶ですから、話を脚色しているかも知れません。この話にふと合点の行くところがあり、今でも覚えています。
 歳をとると、興味と言うものが薄れていくように思っています。それでも、色々な事に興味を持つ事も必要かな、とも思います。ただ、うなぎの話のように、いつまでも引きずらない事が大切であると思っています。

 

 要するに、人間らしくし、煩悩具足でありながらも、引きずって自分を見失わない事が大切な事ではないでしょうか。

 そうすれば、兼好法師の云うような、『妄心迷亂す』と云う事もないと思います。

 『妄心迷亂す』と如何にも当然の事のように書かれていますが、心が動揺したり、拘りが過ぎたり、引きずる事がなければ、『妄心迷亂す』は避ける事ができると思います。