文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【10】

 今日の一文字は『匂』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第九段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 愛着

 今日はあまり体の調子が良くないのか、本調子ではありません。

 しかし、天気は良く、台風もどこかに行ってしまいました。多分今週末に近くで盆踊りがあるのでしょう。櫓が立っています。台風が来る日に櫓が立っていたので心配していました。去年も2日の予定が1日は雨で中止になりました。
 
 今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第九段 〔原文〕

女は髪のめでたからんこそ、人の目たつべかめれ。人のほど、心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、ものごしにも知らるれ。ことにふれて、うちあるさまにも人の心をまどはし、すべて女の、うちとけたるいも寝ず、身を惜しとも思ひたらず、堪ゆべくもあらぬわざにもよく堪へしのぶは、ただ色を思ふがゆゑなり。

まことに、愛著あいじゃくの道、その根深く、源遠し。六塵ろくじん楽欲ぎょうよく多しといへども、皆厭離えんりしつべし。その中に、ただ、かのまどひのひとつやめがたきのみぞ、老いたるも若きも、智あるも愚かなるも、かはる所なしとみゆる。

されば、女の髪すぢをよれる綱には、大象もよくつながれ、女のはける足駄あしだにて作れる笛には、秋の鹿、必ずよるとぞ言ひ伝へ侍る。

自ら戒めて、恐るべく慎むべきは、このまなどひなり。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。もちろん我流ですから私見なども入っていますので了承願います。

 『女性は髪の毛が美しいと人が注目するようである。人柄、気立てなどは、話をしている様子で、物を隔てても分かるものだ。何気ない素振りにも人の心を惑わす。すべての女性は寝る時も気を張って身体の事も厭わず、堪え難きをよく耐えられるのは、愛されるためである。
 まったく愛著あいじゃくの道は、その根が深く、その始まりは古い。六塵ろくじんは、前に紹介した「般若心経」にも記載のある「眼で見る・耳で聞く・鼻で嗅ぐ・舌で味わう・身で触る・意識で思う」と、楽欲ぎょうよくと言うのは、「欲望」の事を言っています。

 この六塵ろくじん楽欲ぎょうよくが多いと言っても、みんな嫌だと思って避ける事ができる。しかし、愛著の道は、止められない、どうも老若男女、賢い人も愚かな人も同じらしい。

 それゆえに、女性の髪の毛で編んだ綱は大きな象も繋がれ、女性の履いた高下駄で作った鹿笛で吹くと秋の鹿は、必ず寄って来ると言う言い伝えがある。』

 

『髪』

 髪の毛を、私に語らせると、一行にもなりません。

 「ない」

 と、言ってしまうと、元も子もないので、この「徒然草」に書かれてある『女性の髪』を考えてみる事にします。

 兼好が女性の髪に惹かれるというより、仏教の説法の一つかも知れませんし、中国の諺かも知れません。「白髪三千丈」の類と思っています。

 確かに髪の毛の強さは、せいぜい10本の束で、1.5リットルのペットボトルを持ち上げられる程度でしょう。どこかに書いてありました。
 
 蜘蛛の糸の強さは鋼鉄の5倍であると聞いたことがあります。そのような譬えだと思います。

 特に女性が履いたからと言って、その下駄で作った笛を吹けば、鹿が寄って来るとも思えません。これも、女性はそれほど色香があると言いたいのでしょう。

 確かに、前に紹介した「惜別の歌」の中にも、髪の毛を歌ったものがありました。

「遠き別れに たえかねて この高殿に 登るかな 悲しむなかれ 我が友よ 旅の衣を ととのえよ

 別れといえば 昔より この人の世の 常なるを 流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

 君がさやけき 目のいろも 君くれないの くちびるも 君がみどりの 黒髪も またいつか見ん この別れ」

 この三番の歌詞の中に、「君がみどりの黒髪も」とあります。中学生の時の事ですから、「みどりの黒髪」、「???」で、早速辞書を引いて見ました。

 「みどり」と言うのは、「緑」や「翠」の漢字を使いますが、「翠」は「翡翠」と書いて「かわせみ」と読むそうです。「翡」は赤い羽根の雄、「翠」は青い羽根の雌を表すそうです。

 青信号が緑だったりするのと同じ扱いかも知れません。

 また、「みどり」自体の意味が新芽や若葉の事を言い表わす言葉として使われ、本来は色ではなく新鮮でつやつやした感じを表したそうです。

 この歌にしても、女性に対する男性の気持ちが、伝わってくるような切なさを感じます。

 私自身はと言うと、「言うな!」と言われそうですが。全く髪の毛に魅力を感じる事はありません。もちろん、私のように禿げてない事に越したことはありませんが。そこそこあれば良いと思っています。

 

『愛著』

 原文では「愛著あいじゃく」になっています。「愛著」も「愛着」も、現在では同じ読み方で「あいちゃく」と読みます。しかし、『あいじゃく』と読む場合は仏教用語と考える方が良いと思います。

 意味は、「1.仏語。欲望にとらわれて離れられないこと。愛執あいしゅう 。」(出典:デジタル大辞泉 小学館.)になっています。

 ここで、兼好は、いわゆる煩悩の内、六塵ろくじんすなわち、「無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんに 無色声香味触法むしきしょうこうみそくほう」と「般若心経」で言っているものは、何とか克服しようと思えば克服できるが、愛著あいじゃくの道」は老若男女、賢者から愚者に至るまで万人が止められない。と言っています。

 ところで、この文章からは計りかねますが、兼好本人はどうなんでしょう。万人の中に兼好も入ると言う事でしょうか。

 それとも、男女のそんな気持ちにあきれ返っているのでしょうか。

 確かに、ドラマを見ていても、収賄や贈賄が絡んだものには、お金と言うものが多いですが、女性が絡む場合も多いと思います。

 世界的にも、ハニートラップは当たり前のようですし、日本でも昔から色仕掛けは、交渉の常套手段みたいですから、世の中の男性は、そんな気持ちがあるのかも知れません。

 そういえば、若い頃にそういう誘いがあった事がありました。一蹴しましたが、そう言う人だと見られたのでしょうか。

 

『凛』

 この文章の初めの方に、「うちとけたるいも寝ず、身を惜しとも思ひたらず、堪ゆべくもあらぬわざにもよく堪へしのぶ」と言うくだりがありますが、女性が常に姿勢を崩さず「凛」としているのは、私も感心するところです。

 一番初めに思ったのは、中学生の頃です。朝礼などで、カバンを片手に立っているのですが、私などは、カバンは下に下ろしていますし、列は乱すし、真直ぐに立っている事などありませんでした。

 授業を受ける態度も、女性は、いつも背骨が真直ぐに骨盤を立てて、姿勢が崩れる事がありませんでした。

 最近のテレビを観ていても、女性は、アナウンサーから芸能人に至るまで、スッキリした態度を崩しません。もちろんこれは職業ですから当たり前と言えば当たり前の姿ですが、職業でなくても、女性の方が「凛」として見えます。

 最近のテレビ番組で『義母と娘のブルース』で主演の綾瀬はるかさんが、常に姿勢正しく行動する姿は、やりすぎのように見えますが、これは番組のキャラクターで誇張しているのだと思います。しかし、女性全般に我慢強いように思います。

 これが、兼好の言うように、「ただ色を思ふがゆゑなり。」と言う言葉通りだとしたら、女性からクレームが来そうな気がします。

 女性にそんな下心があるとは思えません。しかし、女性は生まれながらに、DNAに深く刻まれて生まれて来ているのかも知れません。