文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【14】

 今日の一文字は『辛』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第十三段』を読んで見て、感じた文字です。楷書の文字は、「立」の下に「十」ですが、これは、行書体を書いています。行書にも色々な書き方があり、この文字が面白いので書きました。

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 昨夜は盆踊りで、マンションの周りは大賑わいでした。今年は2日とも天候が良さそうです。良かったですね。

 専門の歌手が4人ほど来ていたそうです。声だけ聞こえてきましたが、とても良い声でした。

 私は河内音頭の歌手を若い頃知っていました。一緒に旅行に行ったとき、歌謡曲を聞かせてもらったのですが、とても上手く良い声で聞きほれたものです。

 私が習っていた民謡の及川 清三先生の歌謡曲を聞いた時も、聞きほれた覚えがあります。やはり、専門家は上手ですね。

 私の空手道も書道も、道ですから、他人の評価を期待するものではありませんが、意図しない時に、そんな評価をもらうとうれしいかも知れません。

 今日も朝、少し体操が終わってから、空手の型をやって見ましたが、思うようには行きません。体を動かした後は、お風呂に入って、お習字をするのですが、今日は「半切」を書きました。自分では納得の行く物が出来たと思っています。

 「星河不動天如水風露無聲月満楼せいがふどうてんみずのごとしふうろこえなくつきろうにみつ」を書き始めて1ヵ月半ほどになりましたが、ようやく仕上げる事が出来ました。

 これも、しばらく経ってみると、悪い所が目に付くのでしょうね。
  
 
 さて、今日も徒然草を読んで見ることにします。

 
徒然草 第十三段 〔原文〕

おなじ心ならん人としめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆたがはざらんと向ひゐたらんは、ひとりある心地やせん。

たがひに言はんほどの事をば、「げに」と聞くかひあるものから、いささか違う所もあらん人こそ、「我はさやは思ふ」など争ひ憎み、「さるから、さぞ」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、少しかこつかたも、我と等しからざらん人は、大方おおかたのよしなしごと言はんほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかに隔たる所のありぬべきぞ、わびしきや。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。まったく古文を読むことを習った事もありませんので、何度も言いますが、勝手な訳文と思って下さい。

 『気の合う人と静かに語り合えば、風情のある事や世の中のむなしい事など、忌憚きたんなく話せることはうれしい事だが、そうは気の合う人がいない。相手の気持ちをそがないように、気を使っているのは、一人でいるのと変わりがない。

 互いに話す事に、「なるほど」と同調する価値がある事柄から、いささか意見の違う場合には、「私はそうは思わない」と反論して「だから、そうなのだ」と話せれば、暇を紛らすことも出来る。しかし実際のところは、愚痴を言うにも、考えが違う人は、差し障りの無い話なら良いが、真の友としては、遥に隔たりがあるに違いないと思うと、寂しい思いがする。』

 

『友』

 若い頃は、一晩でも寝ずに議論した友人もいましたが、歳を取るごとにそんな友も、今はいなくなりました。

 兼好は、考え方、気心が合う人を肯定しているように感じます。若い頃は、同調してくれる人の方が、気が休まるので、もっぱらそう言う人と付き合う事が多かったと思います。

 しかし、歳を経るごとに、自分の考えも変わって来ました。

 気の合う人よりも、気の合わない人の方が為になる事もあります。ただし、これは、考え方が違うだけで、気は合っているのでしょう。でなければ、話しなんて出来ません。

 ただ、私にも好みがあります。一つは礼節を考える事の出来る人が良いです。そして、礼節に適った言葉遣いができる。と言う事が条件です。

 凄い、上から目線ととられるかも知れませんが、別に上から目線で付き合おうと言う分けではありません。条件に合う合わないは、こちらも選別しますし、相手もこの条件をのめるかを選別すれば良いと思います。条件はフィフティフィフティ、五分五分です。

 この歳で友人が出来るとも思いませんが、話しが通じる人がいるのと、居ないのとでは、いる方が良いと思います。でなければ、単に世の中に背を向けているだけになってしまいます。

 兼好は、相手と話をする時に、気を使うのであれば、一人でいる時と変わりがないと言っています。

 そうですかね、私は一人でいる時に気を使う事はないと思います。

 会話って、忌憚のない意見を言い合うのは、目的がハッキリしている場合だと思っています。それが会社の会議であるとか、団体の集会であるとか、議案があって、その議案に対する結果を求められる時は、自分の考えと、人の考えを競い合って、より良い方法を導くためであれば、何も人に遠慮する必要もありません。

 しかし、通常の話、兼好の言う 「をかしき事も、世のはかなき事も」 と言ったテーマで話をする時は、お互いに相手の考え方を尊重する方が、お互いの為になると思います。こんなテーマで相手に勝って、どうするつもりでしょう。正しい事なんて、人間には分かりませんよ。

 

『レベル』

 私は、随分前から、人にはレベルがあるように感じています。レベルと言うと語弊があって、賢者と愚者のように思われがちですが、私のレベルと言うのは、立っている場所が違う。いわゆる次元が違う、と言うと、もっと傲慢な言い方になるのかも知れません。

 要するに、向いている方向が違うと言いたいのです。どっちを向こうが、人の勝手です。しかし、向いている方向が違うと、見える景色も違うじゃないですか。意見が合う分けがありません。

 どこまで行っても平行線ならまだしも、逆方向だとどうにも話がちぐはぐになってしまいます。

 例えば、ビルの20階から見る景色と、10階から見る景色では全く違います。それが部屋の中だと、床がありますから、全く違う景色を見ているのですから、話しを合わせようにも合わせる事ができません。

 そんな感じで、レベルを捉えています。ようするに 水準器をレベルと言うようにです。

 兼好はそんな同じレベルにいる人がいない事を、寂しいと言っていると思います。

 世の中そんなに捨てたものでは無いと思っています。勝手に床や壁を自分が造っているとしたら、それこそ寂しい事です。

 そのレベルは正しい水準器を使っているのか、それを確認する事も大切だと思います。

 前にも書いたかも知れませんが、よく道場で話をする事です。自分と同じ位だと思ったら、自分より上手いかも知れない。自分より強いのかも知れません。

 これは、水準器の水平が上を指しているのでしょう。物理的にも、自分と同じ位の背の高さだと思うと、自分よりも背が高い事ってあると思いませんか。

 並んで見て、自分より背が低いと思って、計ってみたら同じだった、なんて事は日常茶飯事です。

 私は、自分の水準器が、少し自分に下駄を履かせているのだと思う事にしています。物理的にも精神的にも。