今日も松濤二十訓の中から「常に思念工夫せよ」と言う言葉を書いて見ました。
これは、直ぐに頷けると思うのですが、注意が必要です。
なぜ、注意が必要なんでしょう。
私が若い頃から何度も陥ったので、改悟の意味を込めて書きたいと思います。
『朝鍛夕錬』と言う言葉を宮本武蔵が五輪書の自序の中に書いてあります。
この中の『朝鍛夕錬』は、「常に思念工夫せよ」と同じような意味合いがあると思っています。
朝鍛錬して夜はその鍛練した様子をしっかり反省したり、反芻することが、一日の稽古と言えると思います。
身体を動かす事ばかりが稽古ではなく、しっかり頭で考える事も必要であると思うのです。
それが『思念工夫』になると思っています。
ただ、これが行き過ぎると、いや拘り過ぎると、と言った方が良いかも知れませんが、稽古ではなく学者になってしまうと、何度も思ったものです。
例えば、私は学生の時は力学を専門としていましたので、空手の技を力学的に解こうと、これに没頭した時期がありました。
そんな時に、稽古を忘れて一生懸命計算をしていた事を思い出しました。
また、『型』の中に出てくる技術を想定して色々な状況を試して見る事もありました。
よく、型の意味を色々な角度から研究されているのですが、私は稽古は、『型』の中にある一つの動作が技術と思っていて、稽古するとはこれを反復する事だと思っています。
『型』の中の形を変えて、発展させるのも思念工夫になるのでしょうが、この考えた技を相手の動きに反応して出て来なければ、技とは言えないと思っています。また、そんな技術はいくらあっても役には立たないと思っています。
本来は、抜刀術や示現流に見られるような、一撃必殺に空手の妙味があると思います。
思念工夫も、新しい技を生み出すのは、武才のある天才に任せて、今ある仕方を自分の物にするためには、どうすれば良いかを考えるのが『思念工夫』になると思います。私のような凡人にはそれが似合っていると思います。
物には仕方があると、故佐々木武先生の言葉を借りて、このブログにも載せていますが、間違った仕方で事を成そうとすると、徒労に終わる事を知っていたいと思います。