今日も松濤二十訓の中から「空手の修業は一生である」と言う言葉を書いて見ました。
これは、なかなか難しい事です。 私はもう人生も終盤ですから、多分一生空手道は続けられると思います。
しかし、まだ若い人は先の事を決めてしまうのはどうかと思います。何か目標があって達成するのであれば出来ると思うのですが、修業が一生と言われても俄かには認めたくないのが実情でしょう。
ただ、ここで言われている「空手の修業は一生である」と言う言葉を、少し違う視点から見て見ると、成程と納得できるかも知れません。
私も若い頃は一時天狗と言うか、自分自身が強いと誤解していた時期がありました。そして、空手とはこんなものかと高を括っていた事もあります。
しかし、年々、修業とは言えないまでも稽古していると、先が見えなくなる事があります。そして、その行きつく先が、永遠に届かない事に気が付きます。
そうです、やればやるほど、難しい事に気が付くと言った方が良いかも知れません。それは、体力的に低下する事だけではなく、技術も心も、自分が考えていたものより、もっと深淵である事に気付かされるのだと思います。
ですから、「空手の修業は一生である」と言えるのでは無いでしょうか。
何もこれは「空手」に限った事ではなく、例えば料理をする人であっても、一流料理人や一流のシェフと言う人はいると思います。要するに人を喜ばせる人の事です。
それでも、その道に達したかと言うと、きっと道半ばと、心ある人は言うのではないでしょうか。
これは、料理人だけではなく、職人と呼べる人に共通の気持ちではないかと思います。
また、会社経営や、議員などどんな事を生業にしている人にも、共通している事かも知れません。
ある程度その道を究めれば、その道の深さに気が付くのかも知れません。
これからも、命尽きるまで、コツコツと、そして黙々と只管稽古に励むと思っています。