空手道の名言 Part-6

 今日も松濤二十訓の中から「心は放たん事を要す」と言う言葉を書いて見ました。ひらがなの部分は変体仮名を用い、漢字は草書で書きました。

 『不動智神妙録』から学ぶ(Part 6)「心の置き所」( )に、『孟子の「放心を求めよ」』とあります。

 これは、「孟子」告子章句上篇の『学問之道無他、求其放心而已矣。』の言葉だと思います。

 これを現代文に直すと、「学問の道は他に無し、その放心を求むるのみなり。」で、意味は「学問の道は他でもない、どこかに行ってしまった、自分の心を見つけ出す事である」とでもなるのでしょう。

 如何にも孟子らしく、性善説である事を如実に表していると思います。心は元からあって今は忘れているだけなのだと。

 また、この「心は放たん事を要す」と言う言葉は、中国宋代の哲学者の邵康節しょうこうせつ(1011~77)が述べた言葉だそうですが、邵康節しょうこうせつは、孟子が行っている「放心を求むる」ではなく、「心は放たん事を要す」と言っているのは、まさにこの松濤二十訓にある言葉と同じです。

 では、ここで言われている「心は放たん事を要す」と言う事は、どういう状態なんでしょう。やはり戦いの場を想定する方が解りやすいかも知れません。

 ですから、これも私の経験から探って見る事にします。

 私はこのブログの名前を「髓心ブログ」としましたが、これは、ブログコンセプト、髓心とはに書いてあるように、心を二つの心として捉えています。

 ですから、この二つの、「物事に囚われ右往左往する心」と、「何事にも動じない心」の内、「物事に囚われ右往左往する心」には、「心は放たん事を要す」と言う気持ちが大切だと思っています。

 でなければ、武道にとって大切な「居着き」の状態になったり、相手の動きに惑わされて、正確な情報を得る事も叶わなくなります。

 結局、「物事に囚われ右往左往する心」を無心にしなければ物の役には立たないと言う事だと思っています。

 私はこのブログでも、「無心の前の一心」と言う言葉を載せていますが、あくまでもこれは私が感じた無心への扉だと思っています。

 なかなか、座禅をしても、組手をしても、無心になる事は難しいと思っています。何か雑念が入ってきます。そんな時にこの「無心の前の一心」を信じて集中する事が、無心になるコツだと思います。

 そして、無心になる事が、松濤二十訓に言われる「放心」に繋がると思います。